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『御講に参詣しよう』チラシが発刊

 投稿者:おきうら  投稿日:2017年 9月 8日(金)11時27分8秒
返信・引用
  大石寺派(すでに広宣流布からリタイアしたので最近は退席痔派とも呼びます)では、自分たちの唯一のアイデンティティとして戒壇の大御本尊を主張しますし、大聖人の御書のとおりに実践していない老衰した自己中心の脱会者が、自分は大御本尊のある方がいいから日犬は悪でも仕方ない、と半泣きで侘びていたりもします。
しかし、貫主であった日顕自身が、戒壇の大御本尊についての真実を示唆する講釈を垂れたことで、いよいよ真実の大聖人の教えが明らかにされる「時」が来たと確信しています。
戒壇の大御本尊という立派な彫刻本尊が、実は大聖人御在世の建立ではないという証拠をたくさん示して、真実の大聖人の仏法について思索する契機としてみましょう。
 なお、それぞれの主張に根拠となる画像ファイルがたくさんあるのですが、ここでは省略させていただきます。

◎日顕が河辺メモでばらした戒壇の大御本尊偽物説の間違い

宗門でも有名な河辺メモは、かつての学会と宗門との連絡会議の学会側の記録と比較するとほとんど表現が一致していること等の実績から、その正確さについては知る人ぞ知る、という記録文書です。
その河辺メモで暴露された昭和53年2月7日付けの阿部教学部長(当時)と帝国ホテルでの会話の内容は、

「S53・3・7、A面談(注:当時阿部教学部長)・帝国H
一、 戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(写真判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。」

というものです。この河辺慈篤(故人)のメモに記載されている内容で重要な点は、
「法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」
の個所です。
 阿部の見解は、戒壇の大御本尊とは弘安3年5月9日に顕わされて日禅に授与された本尊を「籠抜き」と称する手法(御本尊に和紙を当てて、題目を書き写し、次にその和紙を木の板に当てて板に刻むという本尊の作成方法)で彫刻したもので、日時師か日有師の頃の筆だというものです。
 最も確実な確認の方法は、毎年の虫払い法要の際に公開される日禅授与本尊について、実際にどのように籠抜きをした形跡が残っているかを確認すれば良いのでしょうが、宗旨が根本からひっくり返るので、絶対に宗門はそれを認めるはずはないし、聞いても頭から無視し否定するしか道がない。邪宗門の言い訳文書を見ると、

「日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆本尊について(むろん日禅授与本尊も同様)写真撮影や鑑定調査を許していない。」

と、とにかく頭から否定してかかるしか逃れる道が無いことを自覚しているようです。
 しかし、情報化社会の中で、すでに多様な情報が共有されているのですから、阿部の主張を基礎に、そうした公開された情報を参考にして、一つずつ事実確認をすることで、戒壇の大御本尊の真実に迫ることとしましょう。また、邪宗門に対しては、

① 日禅授与本尊に籠抜きをした形跡が残っているかを確認せよ
② 戒壇の大御本尊をわずか数mg削って、AMS法で炭素14を分析せよ

 それによって事実を示せないならば、以下の根拠に基づき、戒壇の大御本尊とは大聖人滅後に日禅授与本尊を模刻したものだと断定するぞ!と責め続けましょう!
 学会総体としても、現時点では従来の宗旨を否定していないようですが、それは大聖人の言葉である

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

に基づいているからで、上記①、②によって完璧に証拠を確認出来たら、いよいよ教義体系を根本から正すことになるのでしょう。


◎戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々

(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い(是1)

 堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の退席寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げかけておられるのです。

「御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」
「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」
「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」
「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」

等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念(日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持していたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。
 要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、というのが堀上人の結論なのです。


(2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しか記載されていない(是2)

 大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、(1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入りの連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、
「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、

「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213)

と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。
 この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、

「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」

と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で板本尊は存在しなかったという証拠の一つです。


(3)戒壇の大御本尊の主題と日禅授与本尊の主題は極めて高い一致(是3)

 大聖人の御真筆本尊は、約140体が現存しており、いくつかを除いて立正安国会がそれらを「御本尊集」として公開しています。これらの御本尊の主題(題目)はデータベースになり、最新のコンピュータ・マッチングという手法でその類似性を確認することが可能です。
 また、戒壇の大御本尊については今まで写真が公開されていたのは熊田葦城著「日蓮聖人」という文献のみで、非常に不鮮明なものであったため、写真鑑定が出来るような状況ではありませんでした。しかし、邪宗門が奉安堂と称する安普請の建屋に御本尊を移転した際に、ある法華講がごく近接した間近な距離で撮影したようで、静岡在住の金原氏が入手したその写真と、日禅授与本尊の写真とをデータとしてパソコンに取り込み、比較をしたのです。
 その結果は驚くべきもので、他の約140体も含めて、御本尊の主題のサイズと形状(とくにヒゲと呼ばれる文字の撥ね方)は、それぞれが大きく異なっているため、当然のことですが一致するようなものは存在しません。
 ところが、日禅授与本尊と戒壇の大御本尊のみについては、御本尊全体のサイズは全く異なるにも拘わらず、題目のサイズと形状の一致度が極めて高いことが判明したのです。この事実は、阿部が主張した「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、(中略)日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」との見解を見事に確認し、証明するものです。
 阿部の息子のシンショウなどは、「そんな昔に、題目を一定の比率で拡大する技術など無かった」と間の抜けた反論をしようとしていたのですが、拡大などではなく、全く同じサイズの主題なのです。そのことを指摘されると、「私は教学は苦手で」「私の信仰だ」と、教学が無いのでシンショウは、大御本尊のことを「鰯の頭」と同じレベルで信じ込んでいることを自ら暴露したのです。お粗末な邪宗門です。


(4)戒壇の大御本尊の座配と日禅授与本尊の座配は完全に一致(是4)

 大聖人の御本尊を比較すれば、十界の座配はほとんどが異なっています。
 例えば、初期の10体ほどの真筆御本尊には、釈迦・多宝の二仏しか書かれておらず、全部が仏界のみです。
 この事実ひとつを見ても、邪宗門が学会の日寛上人の形木本尊を誹謗するに際し、最初の頃には「十界が全部書かれていないからニセ本尊だ」などと真っ赤なウソをついたのが、明らかです。彼らは単に「学会員の信心を破壊するためにならばどんなウソでもついてやる」という天魔の立場であることが理解できます。学会員から破折され、赤恥を晒してすぐに引っ込めたようですが。
 戒壇の大御本尊と日禅授与本尊の座配を比較すると、阿部が指摘したとおり日禅授与本尊を模写したのであれば当然のことですが、十界のすべての表現と共に「仏滅度後二千二百二十余年」までが全く同じ内容なのです。
 そして、「腰書き」と称する御本尊の下部に書き加えられたと考えられる部分に「弘安二年十月十二日」が存在するのです。
 これは、完全な模刻本尊だということです。戒壇の大御本尊とは、日禅授与本尊を大聖人の滅後に模刻したものだという見事な証拠です。


(5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
 これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者の書き方です。
130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は非常に明確な変遷があります。

① 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」
② 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」
③ 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」

 戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。
 そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊には記載されているのです。
 ここでもまた日顕が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。


(6)日興上人が書写された多数の御本尊は日禅授与本尊以外の御本尊を書写している(是6)

 歴代法主は常住本尊を書写するに際して「書写之」と書きますが、この「之」とは「戒壇の大御本尊」という主張が、以前は退席寺派ではまことしやかに流されていました。
 しかし、日興上人が「書写之」として書き残されたたくさんの御本尊の中に、この戒壇の大御本尊と同じ座配のものがどれほどあるかをいくつも調べてみましたが、少なくとも私が調べた範囲では見当たらないのです。数百もの日興上人の真筆御本尊の中には、日禅授与本尊を書写したものは存在するのかもしれませんが、大聖人の御本尊の重要性を熟知し、五老僧の本尊不敬を厳しく批判されておられた厳格な日興上人が、もしも血脈相伝の根本中の根本と称する「一大秘法」の戒壇の大御本尊という教義の根本が現実に存在したのであれば、それを無視して、他の大聖人の御本尊を書写するとはどういうことでしょうか?
 要するにこのことも、日興上人の御存命の頃には、そのような戒壇の大御本尊と称する「一大秘法」は存在していなかったということの傍証なのです。


(7)歴史上初めて板本尊の記録が残るのは、大聖人滅後約280年も経った1561年の保田妙本寺日我の文書(是7)

 すでに指摘したとおり、大聖人の出世の本懐とされた戒壇の大御本尊の存在は、日興上人が身延から富士に移られた際の宝物の中にも、その後の日興上人御在世中の文献にも何一つその記録は残っていません。
 板本尊という教義上特別に重要なはずの存在が、歴史上最初の記録として文献に現れるのは、大石寺派ではなく、4世日道と決別した日郷が開いた寺である千葉県の保田妙本寺出身の、日我という学僧が書き残した「観心本尊抄抜書」なのです。

「書写の本尊に現文あり、造立の仏に現証あり。久遠寺の板本尊今大石寺に在り大聖御存日の時の造立なり、池上の削りかけの御影、御入滅あるべきその九十月に造らせられるなり、一体の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に立て置くべく候」(富要-171)

 しかもその時期は、大聖人滅後ほぼ280年もの時間が流れているのです。現代との時間の隔たりで言えば、江戸時代の中頃ぐらいです。
 大聖人の出世の本懐というものがもしも最初から存在していたら、300年近くも歴史の表面に記録が残らないはずがありません。大聖人滅後にそっと模刻して、しばらく保管していたのです。


(8)大石寺派の文献で最初に板本尊の記録が残るのは、1573年以降の日主の文書(是8)

 歴史上初めて板本尊に関する記載が大石寺派の文献に現れたのは、大聖人滅後300年ほども経った、1580年頃に書かれた14世日主の「日興跡條々事示書」が最初のことです。
 そして、それ以降は頻繁に記録が残されているのです。300年にわたって、その存在すら誰も記録に残さないような重大な「宗祖の出世の本懐」が存在するなどということなど考えられるでしょうか。


◎改竄がなされた「日興跡條々事」ではなく、その草本が公開された

 現存する「日興跡條々事」は明らかな改竄が見受けられますが、堀上人が富士宗学要集8巻17ページに記載しているように、
「正本案文共に総本山に現存す」
と記された「案文」が「日蓮と本尊伝承」(水声社 金原明彦)で公開されました。その内容は、
「日興カ当身弘安弐年所給大本尊」
と、日興上人に弘安2年に給わったところの大本尊、ということが記録されているのです。
 つまり、大聖人から日興上人に継承されたのは、「弘安2年の大御本尊」ではなく、大聖人から日興上人に「弘安2年に与えられた」「大本尊」ということなのである。これに該当するものとしては、例えば万年救護本尊は大聖人から日興上人に弘安2年に与えられ、その授与書きには御真筆本尊で唯一「大本尊」という表現が記されているのです。
 そのためか、次項に記載するとおり、唯授一人の血脈相承を受けた歴代の中に万年救護本尊を根本とする見解を持った法主も存在したのです。


(9)大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)

 堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、

「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是
万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」
(通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。)

と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、

「板本尊の事也、今当山に在る也」

と改竄している記録が残されているのです。
 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、

「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」
(通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。)

と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、
「宗門から学会を取ったら何も残らない」
「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」
と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。


 以上のことを総括すれば、阿部は河辺に対して「偽物である」と言ったようですが、これは間違いで、戒壇の大御本尊は事実として立派な模刻本尊なのです。ただ、弘安2年10月の建立などではなく、弘安3年5月の日禅授与本尊を模刻して、(日犬の分析が正しければ)大聖人滅後100年以上経ってから建立されたものなのです。
 あとは、日善授与本尊に模写の形跡があることを確認し、戒壇の大御本尊の炭素14(放射性同位体)を精密に分析して、科学的な証拠を確認すれば、大石寺派の宗旨は根本的に転覆し、いよいよ創価学会も天下晴れて大聖人の言葉(御書)を根本にして、第三の千年の全人類のための教義体系へと再構築をすることになるのです。

 以上の事実を知ってもなお「戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐だと信じる」と、証拠も示せずに幻想にしがみつく方は、「イワシの頭を信じているんだが何か文句あるか」と開き直る原始人と何ら変わりの無い狂信、邪教の信者と言うことが出来ます。
 大聖人が御書で示されている原理を確認してみましょう。

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

 つまり、証拠を示せない主張は邪教だと大聖人は断定されているのです。やはり大石寺派は邪教だったのです 大石寺派(すでに広宣流布からリタイアしたので最近は退席痔派とも呼びます)では、自分たちの唯一のアイデンティティとして戒壇の大御本尊を主張しますし、大聖人の御書のとおりに実践していない老衰した自己中心の脱会者が、自分は大御本尊のある方がいいから日犬は悪でも仕方ない、と半泣きで侘びていたりもします。
しかし、貫主であった日顕自身が、戒壇の大御本尊についての真実を示唆する講釈を垂れたことで、いよいよ真実の大聖人の教えが明らかにされる「時」が来たと確信しています。
戒壇の大御本尊という立派な彫刻本尊が、実は大聖人御在世の建立ではないという証拠をたくさん示して、真実の大聖人の仏法について思索する契機としてみましょう。
 なお、それぞれの主張に根拠となる画像ファイルがたくさんあるのですが、ここでは省略させていただきます。

◎日顕が河辺メモでばらした戒壇の大御本尊偽物説の間違い

宗門でも有名な河辺メモは、かつての学会と宗門との連絡会議の学会側の記録と比較するとほとんど表現が一致していること等の実績から、その正確さについては知る人ぞ知る、という記録文書です。
その河辺メモで暴露された昭和53年2月7日付けの阿部教学部長(当時)と帝国ホテルでの会話の内容は、

「S53・3・7、A面談(注:当時阿部教学部長)・帝国H
一、 戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(写真判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。」

というものです。この河辺慈篤(故人)のメモに記載されている内容で重要な点は、
「法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」
の個所です。
 阿部の見解は、戒壇の大御本尊とは弘安3年5月9日に顕わされて日禅に授与された本尊を「籠抜き」と称する手法(御本尊に和紙を当てて、題目を書き写し、次にその和紙を木の板に当てて板に刻むという本尊の作成方法)で彫刻したもので、日時師か日有師の頃の筆だというものです。
 最も確実な確認の方法は、毎年の虫払い法要の際に公開される日禅授与本尊について、実際にどのように籠抜きをした形跡が残っているかを確認すれば良いのでしょうが、宗旨が根本からひっくり返るので、絶対に宗門はそれを認めるはずはないし、聞いても頭から無視し否定するしか道がない。邪宗門の言い訳文書を見ると、

「日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆本尊について(むろん日禅授与本尊も同様)写真撮影や鑑定調査を許していない。」

と、とにかく頭から否定してかかるしか逃れる道が無いことを自覚しているようです。
 しかし、情報化社会の中で、すでに多様な情報が共有されているのですから、阿部の主張を基礎に、そうした公開された情報を参考にして、一つずつ事実確認をすることで、戒壇の大御本尊の真実に迫ることとしましょう。また、邪宗門に対しては、

① 日禅授与本尊に籠抜きをした形跡が残っているかを確認せよ
② 戒壇の大御本尊をわずか数mg削って、AMS法で炭素14を分析せよ

 それによって事実を示せないならば、以下の根拠に基づき、戒壇の大御本尊とは大聖人滅後に日禅授与本尊を模刻したものだと断定するぞ!と責め続けましょう!
 学会総体としても、現時点では従来の宗旨を否定していないようですが、それは大聖人の言葉である

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

に基づいているからで、上記①、②によって完璧に証拠を確認出来たら、いよいよ教義体系を根本から正すことになるのでしょう。


◎戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々

(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い(是1)

 堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の退席寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げかけておられるのです。

「御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」
「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」
「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」
「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」

等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念(日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持していたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。
 要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、というのが堀上人の結論なのです。


(2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しか記載されていない(是2)

 大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、(1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入りの連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、
「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、

「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213)

と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。
 この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、

「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」

と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で板本尊は存在しなかったという証拠の一つです。


(3)戒壇の大御本尊の主題と日禅授与本尊の主題は極めて高い一致(是3)

 大聖人の御真筆本尊は、約140体が現存しており、いくつかを除いて立正安国会がそれらを「御本尊集」として公開しています。これらの御本尊の主題(題目)はデータベースになり、最新のコンピュータ・マッチングという手法でその類似性を確認することが可能です。
 また、戒壇の大御本尊については今まで写真が公開されていたのは熊田葦城著「日蓮聖人」という文献のみで、非常に不鮮明なものであったため、写真鑑定が出来るような状況ではありませんでした。しかし、邪宗門が奉安堂と称する安普請の建屋に御本尊を移転した際に、ある法華講がごく近接した間近な距離で撮影したようで、静岡在住の金原氏が入手したその写真と、日禅授与本尊の写真とをデータとしてパソコンに取り込み、比較をしたのです。
 その結果は驚くべきもので、他の約140体も含めて、御本尊の主題のサイズと形状(とくにヒゲと呼ばれる文字の撥ね方)は、それぞれが大きく異なっているため、当然のことですが一致するようなものは存在しません。
 ところが、日禅授与本尊と戒壇の大御本尊のみについては、御本尊全体のサイズは全く異なるにも拘わらず、題目のサイズと形状の一致度が極めて高いことが判明したのです。この事実は、阿部が主張した「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、(中略)日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」との見解を見事に確認し、証明するものです。
 阿部の息子のシンショウなどは、「そんな昔に、題目を一定の比率で拡大する技術など無かった」と間の抜けた反論をしようとしていたのですが、拡大などではなく、全く同じサイズの主題なのです。そのことを指摘されると、「私は教学は苦手で」「私の信仰だ」と、教学が無いのでシンショウは、大御本尊のことを「鰯の頭」と同じレベルで信じ込んでいることを自ら暴露したのです。お粗末な邪宗門です。


(4)戒壇の大御本尊の座配と日禅授与本尊の座配は完全に一致(是4)

 大聖人の御本尊を比較すれば、十界の座配はほとんどが異なっています。
 例えば、初期の10体ほどの真筆御本尊には、釈迦・多宝の二仏しか書かれておらず、全部が仏界のみです。
 この事実ひとつを見ても、邪宗門が学会の日寛上人の形木本尊を誹謗するに際し、最初の頃には「十界が全部書かれていないからニセ本尊だ」などと真っ赤なウソをついたのが、明らかです。彼らは単に「学会員の信心を破壊するためにならばどんなウソでもついてやる」という天魔の立場であることが理解できます。学会員から破折され、赤恥を晒してすぐに引っ込めたようですが。
 戒壇の大御本尊と日禅授与本尊の座配を比較すると、阿部が指摘したとおり日禅授与本尊を模写したのであれば当然のことですが、十界のすべての表現と共に「仏滅度後二千二百二十余年」までが全く同じ内容なのです。
 そして、「腰書き」と称する御本尊の下部に書き加えられたと考えられる部分に「弘安二年十月十二日」が存在するのです。
 これは、完全な模刻本尊だということです。戒壇の大御本尊とは、日禅授与本尊を大聖人の滅後に模刻したものだという見事な証拠です。


(5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
 これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者の書き方です。
130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は非常に明確な変遷があります。

① 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」
② 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」
③ 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」

 戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。
 そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊には記載されているのです。
 ここでもまた日顕が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。


(6)日興上人が書写された多数の御本尊は日禅授与本尊以外の御本尊を書写している(是6)

 歴代法主は常住本尊を書写するに際して「書写之」と書きますが、この「之」とは「戒壇の大御本尊」という主張が、以前は退席寺派ではまことしやかに流されていました。
 しかし、日興上人が「書写之」として書き残されたたくさんの御本尊の中に、この戒壇の大御本尊と同じ座配のものがどれほどあるかをいくつも調べてみましたが、少なくとも私が調べた範囲では見当たらないのです。数百もの日興上人の真筆御本尊の中には、日禅授与本尊を書写したものは存在するのかもしれませんが、大聖人の御本尊の重要性を熟知し、五老僧の本尊不敬を厳しく批判されておられた厳格な日興上人が、もしも血脈相伝の根本中の根本と称する「一大秘法」の戒壇の大御本尊という教義の根本が現実に存在したのであれば、それを無視して、他の大聖人の御本尊を書写するとはどういうことでしょうか?
 要するにこのことも、日興上人の御存命の頃には、そのような戒壇の大御本尊と称する「一大秘法」は存在していなかったということの傍証なのです。


(7)歴史上初めて板本尊の記録が残るのは、大聖人滅後約280年も経った1561年の保田妙本寺日我の文書(是7)

 すでに指摘したとおり、大聖人の出世の本懐とされた戒壇の大御本尊の存在は、日興上人が身延から富士に移られた際の宝物の中にも、その後の日興上人御在世中の文献にも何一つその記録は残っていません。
 板本尊という教義上特別に重要なはずの存在が、歴史上最初の記録として文献に現れるのは、大石寺派ではなく、4世日道と決別した日郷が開いた寺である千葉県の保田妙本寺出身の、日我という学僧が書き残した「観心本尊抄抜書」なのです。

「書写の本尊に現文あり、造立の仏に現証あり。久遠寺の板本尊今大石寺に在り大聖御存日の時の造立なり、池上の削りかけの御影、御入滅あるべきその九十月に造らせられるなり、一体の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に立て置くべく候」(富要-171)

 しかもその時期は、大聖人滅後ほぼ280年もの時間が流れているのです。現代との時間の隔たりで言えば、江戸時代の中頃ぐらいです。
 大聖人の出世の本懐というものがもしも最初から存在していたら、300年近くも歴史の表面に記録が残らないはずがありません。大聖人滅後にそっと模刻して、しばらく保管していたのです。


(8)大石寺派の文献で最初に板本尊の記録が残るのは、1573年以降の日主の文書(是8)

 歴史上初めて板本尊に関する記載が大石寺派の文献に現れたのは、大聖人滅後300年ほども経った、1580年頃に書かれた14世日主の「日興跡條々事示書」が最初のことです。
 そして、それ以降は頻繁に記録が残されているのです。300年にわたって、その存在すら誰も記録に残さないような重大な「宗祖の出世の本懐」が存在するなどということなど考えられるでしょうか。


◎改竄がなされた「日興跡條々事」ではなく、その草本が公開された

 現存する「日興跡條々事」は明らかな改竄が見受けられますが、堀上人が富士宗学要集8巻17ページに記載しているように、
「正本案文共に総本山に現存す」
と記された「案文」が「日蓮と本尊伝承」(水声社 金原明彦)で公開されました。その内容は、
「日興カ当身弘安弐年所給大本尊」
と、日興上人に弘安2年に給わったところの大本尊、ということが記録されているのです。
 つまり、大聖人から日興上人に継承されたのは、「弘安2年の大御本尊」ではなく、大聖人から日興上人に「弘安2年に与えられた」「大本尊」ということなのである。これに該当するものとしては、例えば万年救護本尊は大聖人から日興上人に弘安2年に与えられ、その授与書きには御真筆本尊で唯一「大本尊」という表現が記されているのです。
 そのためか、次項に記載するとおり、唯授一人の血脈相承を受けた歴代の中に万年救護本尊を根本とする見解を持った法主も存在したのです。


(9)大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)

 堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、

「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是
万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」
(通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。)

と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、

「板本尊の事也、今当山に在る也」

と改竄している記録が残されているのです。
 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、

「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」
(通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。)

と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、
「宗門から学会を取ったら何も残らない」
「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」
と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。


 以上のことを総括すれば、阿部は河辺に対して「偽物である」と言ったようですが、これは間違いで、戒壇の大御本尊は事実として立派な模刻本尊なのです。ただ、弘安2年10月の建立などではなく、弘安3年5月の日禅授与本尊を模刻して、(日犬の分析が正しければ)大聖人滅後100年以上経ってから建立されたものなのです。
 あとは、日善授与本尊に模写の形跡があることを確認し、戒壇の大御本尊の炭素14(放射性同位体)を精密に分析して、科学的な証拠を確認すれば、大石寺派の宗旨は根本的に転覆し、いよいよ創価学会も天下晴れて大聖人の言葉(御書)を根本にして、第三の千年の全人類のための教義体系へと再構築をすることになるのです。

 以上の事実を知ってもなお「戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐だと信じる」と、証拠も示せずに幻想にしがみつく方は、「イワシの頭を信じているんだが何か文句あるか」と開き直る原始人と何ら変わりの無い狂信、邪教の信者と言うことが出来ます。
 大聖人が御書で示されている原理を確認してみましょう。

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

 つまり、証拠を示せない主張は邪教だと大聖人は断定されているのです。やはり大石寺派は邪教だったのです

 
 

『御講に参詣しよう』チラシが発刊

 投稿者:正宗批判を破す  投稿日:2017年 9月 7日(木)17時52分40秒
返信・引用
   八月七日、御報恩御講への参詣を推進する「御講に参詣しよう」と題したチ
ラシが、大日蓮出版より発刊された。

 これは、御講参詣者を増やし、広布の人材を育成するために作製されたもの
である。

 内容は、日蓮大聖人をはじめとする三宝に報恩感謝すべきことや、僧侶によ
る法話を聴聞することの大切さなどについて記され、講中全員参加での御講の
奉修を推進している。

 体裁はB五判、両面カラー、定価は三円(税込み・送料別)となっており、十
枚単位で購入できる。申し込み、問い合わせは大日蓮出版まで。


 

逝ってらっしゃい~

 投稿者:おきうら  投稿日:2017年 9月 6日(水)17時31分54秒
返信・引用
  大石寺派(すでに広宣流布からリタイアしたので最近は退席痔派とも呼びます)では、自分たちの唯一のアイデンティティとして戒壇の大御本尊を主張しますし、大聖人の御書のとおりに実践していない老衰した自己中心の脱会者が、自分は大御本尊のある方がいいから日犬は悪でも仕方ない、と半泣きで侘びていたりもします。
しかし、貫主であった日顕自身が、戒壇の大御本尊についての真実を示唆する講釈を垂れたことで、いよいよ真実の大聖人の教えが明らかにされる「時」が来たと確信しています。
戒壇の大御本尊という立派な彫刻本尊が、実は大聖人御在世の建立ではないという証拠をたくさん示して、真実の大聖人の仏法について思索する契機としてみましょう。
 なお、それぞれの主張に根拠となる画像ファイルがたくさんあるのですが、ここでは省略させていただきます。

◎日顕が河辺メモでばらした戒壇の大御本尊偽物説の間違い

宗門でも有名な河辺メモは、かつての学会と宗門との連絡会議の学会側の記録と比較するとほとんど表現が一致していること等の実績から、その正確さについては知る人ぞ知る、という記録文書です。
その河辺メモで暴露された昭和53年2月7日付けの阿部教学部長(当時)と帝国ホテルでの会話の内容は、

「S53・3・7、A面談(注:当時阿部教学部長)・帝国H
一、 戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(写真判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。」

というものです。この河辺慈篤(故人)のメモに記載されている内容で重要な点は、
「法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」
の個所です。
 阿部の見解は、戒壇の大御本尊とは弘安3年5月9日に顕わされて日禅に授与された本尊を「籠抜き」と称する手法(御本尊に和紙を当てて、題目を書き写し、次にその和紙を木の板に当てて板に刻むという本尊の作成方法)で彫刻したもので、日時師か日有師の頃の筆だというものです。
 最も確実な確認の方法は、毎年の虫払い法要の際に公開される日禅授与本尊について、実際にどのように籠抜きをした形跡が残っているかを確認すれば良いのでしょうが、宗旨が根本からひっくり返るので、絶対に宗門はそれを認めるはずはないし、聞いても頭から無視し否定するしか道がない。邪宗門の言い訳文書を見ると、

「日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆本尊について(むろん日禅授与本尊も同様)写真撮影や鑑定調査を許していない。」

と、とにかく頭から否定してかかるしか逃れる道が無いことを自覚しているようです。
 しかし、情報化社会の中で、すでに多様な情報が共有されているのですから、阿部の主張を基礎に、そうした公開された情報を参考にして、一つずつ事実確認をすることで、戒壇の大御本尊の真実に迫ることとしましょう。また、邪宗門に対しては、

① 日禅授与本尊に籠抜きをした形跡が残っているかを確認せよ
② 戒壇の大御本尊をわずか数mg削って、AMS法で炭素14を分析せよ

 それによって事実を示せないならば、以下の根拠に基づき、戒壇の大御本尊とは大聖人滅後に日禅授与本尊を模刻したものだと断定するぞ!と責め続けましょう!
 学会総体としても、現時点では従来の宗旨を否定していないようですが、それは大聖人の言葉である

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

に基づいているからで、上記①、②によって完璧に証拠を確認出来たら、いよいよ教義体系を根本から正すことになるのでしょう。


◎戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々

(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い(是1)

 堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の退席寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げかけておられるのです。

「御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」
「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」
「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」
「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」

等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念(日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持していたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。
 要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、というのが堀上人の結論なのです。


(2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しか記載されていない(是2)

 大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、(1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入りの連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、
「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、

「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213)

と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。
 この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、

「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」

と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で板本尊は存在しなかったという証拠の一つです。


(3)戒壇の大御本尊の主題と日禅授与本尊の主題は極めて高い一致(是3)

 大聖人の御真筆本尊は、約140体が現存しており、いくつかを除いて立正安国会がそれらを「御本尊集」として公開しています。これらの御本尊の主題(題目)はデータベースになり、最新のコンピュータ・マッチングという手法でその類似性を確認することが可能です。
 また、戒壇の大御本尊については今まで写真が公開されていたのは熊田葦城著「日蓮聖人」という文献のみで、非常に不鮮明なものであったため、写真鑑定が出来るような状況ではありませんでした。しかし、邪宗門が奉安堂と称する安普請の建屋に御本尊を移転した際に、ある法華講がごく近接した間近な距離で撮影したようで、静岡在住の金原氏が入手したその写真と、日禅授与本尊の写真とをデータとしてパソコンに取り込み、比較をしたのです。
 その結果は驚くべきもので、他の約140体も含めて、御本尊の主題のサイズと形状(とくにヒゲと呼ばれる文字の撥ね方)は、それぞれが大きく異なっているため、当然のことですが一致するようなものは存在しません。
 ところが、日禅授与本尊と戒壇の大御本尊のみについては、御本尊全体のサイズは全く異なるにも拘わらず、題目のサイズと形状の一致度が極めて高いことが判明したのです。この事実は、阿部が主張した「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、(中略)日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」との見解を見事に確認し、証明するものです。
 阿部の息子のシンショウなどは、「そんな昔に、題目を一定の比率で拡大する技術など無かった」と間の抜けた反論をしようとしていたのですが、拡大などではなく、全く同じサイズの主題なのです。そのことを指摘されると、「私は教学は苦手で」「私の信仰だ」と、教学が無いのでシンショウは、大御本尊のことを「鰯の頭」と同じレベルで信じ込んでいることを自ら暴露したのです。お粗末な邪宗門です。


(4)戒壇の大御本尊の座配と日禅授与本尊の座配は完全に一致(是4)

 大聖人の御本尊を比較すれば、十界の座配はほとんどが異なっています。
 例えば、初期の10体ほどの真筆御本尊には、釈迦・多宝の二仏しか書かれておらず、全部が仏界のみです。
 この事実ひとつを見ても、邪宗門が学会の日寛上人の形木本尊を誹謗するに際し、最初の頃には「十界が全部書かれていないからニセ本尊だ」などと真っ赤なウソをついたのが、明らかです。彼らは単に「学会員の信心を破壊するためにならばどんなウソでもついてやる」という天魔の立場であることが理解できます。学会員から破折され、赤恥を晒してすぐに引っ込めたようですが。
 戒壇の大御本尊と日禅授与本尊の座配を比較すると、阿部が指摘したとおり日禅授与本尊を模写したのであれば当然のことですが、十界のすべての表現と共に「仏滅度後二千二百二十余年」までが全く同じ内容なのです。
 そして、「腰書き」と称する御本尊の下部に書き加えられたと考えられる部分に「弘安二年十月十二日」が存在するのです。
 これは、完全な模刻本尊だということです。戒壇の大御本尊とは、日禅授与本尊を大聖人の滅後に模刻したものだという見事な証拠です。


(5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
 これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者の書き方です。
130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は非常に明確な変遷があります。

① 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」
② 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」
③ 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」

 戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。
 そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊には記載されているのです。
 ここでもまた日顕が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。


(6)日興上人が書写された多数の御本尊は日禅授与本尊以外の御本尊を書写している(是6)

 歴代法主は常住本尊を書写するに際して「書写之」と書きますが、この「之」とは「戒壇の大御本尊」という主張が、以前は退席寺派ではまことしやかに流されていました。
 しかし、日興上人が「書写之」として書き残されたたくさんの御本尊の中に、この戒壇の大御本尊と同じ座配のものがどれほどあるかをいくつも調べてみましたが、少なくとも私が調べた範囲では見当たらないのです。数百もの日興上人の真筆御本尊の中には、日禅授与本尊を書写したものは存在するのかもしれませんが、大聖人の御本尊の重要性を熟知し、五老僧の本尊不敬を厳しく批判されておられた厳格な日興上人が、もしも血脈相伝の根本中の根本と称する「一大秘法」の戒壇の大御本尊という教義の根本が現実に存在したのであれば、それを無視して、他の大聖人の御本尊を書写するとはどういうことでしょうか?
 要するにこのことも、日興上人の御存命の頃には、そのような戒壇の大御本尊と称する「一大秘法」は存在していなかったということの傍証なのです。


(7)歴史上初めて板本尊の記録が残るのは、大聖人滅後約280年も経った1561年の保田妙本寺日我の文書(是7)

 すでに指摘したとおり、大聖人の出世の本懐とされた戒壇の大御本尊の存在は、日興上人が身延から富士に移られた際の宝物の中にも、その後の日興上人御在世中の文献にも何一つその記録は残っていません。
 板本尊という教義上特別に重要なはずの存在が、歴史上最初の記録として文献に現れるのは、大石寺派ではなく、4世日道と決別した日郷が開いた寺である千葉県の保田妙本寺出身の、日我という学僧が書き残した「観心本尊抄抜書」なのです。

「書写の本尊に現文あり、造立の仏に現証あり。久遠寺の板本尊今大石寺に在り大聖御存日の時の造立なり、池上の削りかけの御影、御入滅あるべきその九十月に造らせられるなり、一体の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に立て置くべく候」(富要-171)

 しかもその時期は、大聖人滅後ほぼ280年もの時間が流れているのです。現代との時間の隔たりで言えば、江戸時代の中頃ぐらいです。
 大聖人の出世の本懐というものがもしも最初から存在していたら、300年近くも歴史の表面に記録が残らないはずがありません。大聖人滅後にそっと模刻して、しばらく保管していたのです。


(8)大石寺派の文献で最初に板本尊の記録が残るのは、1573年以降の日主の文書(是8)

 歴史上初めて板本尊に関する記載が大石寺派の文献に現れたのは、大聖人滅後300年ほども経った、1580年頃に書かれた14世日主の「日興跡條々事示書」が最初のことです。
 そして、それ以降は頻繁に記録が残されているのです。300年にわたって、その存在すら誰も記録に残さないような重大な「宗祖の出世の本懐」が存在するなどということなど考えられるでしょうか。


◎改竄がなされた「日興跡條々事」ではなく、その草本が公開された

 現存する「日興跡條々事」は明らかな改竄が見受けられますが、堀上人が富士宗学要集8巻17ページに記載しているように、
「正本案文共に総本山に現存す」
と記された「案文」が「日蓮と本尊伝承」(水声社 金原明彦)で公開されました。その内容は、
「日興カ当身弘安弐年所給大本尊」
と、日興上人に弘安2年に給わったところの大本尊、ということが記録されているのです。
 つまり、大聖人から日興上人に継承されたのは、「弘安2年の大御本尊」ではなく、大聖人から日興上人に「弘安2年に与えられた」「大本尊」ということなのである。これに該当するものとしては、例えば万年救護本尊は大聖人から日興上人に弘安2年に与えられ、その授与書きには御真筆本尊で唯一「大本尊」という表現が記されているのです。
 そのためか、次項に記載するとおり、唯授一人の血脈相承を受けた歴代の中に万年救護本尊を根本とする見解を持った法主も存在したのです。


(9)大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)

 堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、

「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是
万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」
(通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。)

と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、

「板本尊の事也、今当山に在る也」

と改竄している記録が残されているのです。
 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、

「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」
(通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。)

と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、
「宗門から学会を取ったら何も残らない」
「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」
と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。


 以上のことを総括すれば、阿部は河辺に対して「偽物である」と言ったようですが、これは間違いで、戒壇の大御本尊は事実として立派な模刻本尊なのです。ただ、弘安2年10月の建立などではなく、弘安3年5月の日禅授与本尊を模刻して、(日犬の分析が正しければ)大聖人滅後100年以上経ってから建立されたものなのです。
 あとは、日善授与本尊に模写の形跡があることを確認し、戒壇の大御本尊の炭素14(放射性同位体)を精密に分析して、科学的な証拠を確認すれば、大石寺派の宗旨は根本的に転覆し、いよいよ創価学会も天下晴れて大聖人の言葉(御書)を根本にして、第三の千年の全人類のための教義体系へと再構築をすることになるのです。

 以上の事実を知ってもなお「戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐だと信じる」と、証拠も示せずに幻想にしがみつく方は、「イワシの頭を信じているんだが何か文句あるか」と開き直る原始人と何ら変わりの無い狂信、邪教の信者と言うことが出来ます。
 大聖人が御書で示されている原理を確認してみましょう。

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

 つまり、証拠を示せない主張は邪教だと大聖人は断定されているのです。やはり大石寺派は邪教だったのです 大石寺派(すでに広宣流布からリタイアしたので最近は退席痔派とも呼びます)では、自分たちの唯一のアイデンティティとして戒壇の大御本尊を主張しますし、大聖人の御書のとおりに実践していない老衰した自己中心の脱会者が、自分は大御本尊のある方がいいから日犬は悪でも仕方ない、と半泣きで侘びていたりもします。
しかし、貫主であった日顕自身が、戒壇の大御本尊についての真実を示唆する講釈を垂れたことで、いよいよ真実の大聖人の教えが明らかにされる「時」が来たと確信しています。
戒壇の大御本尊という立派な彫刻本尊が、実は大聖人御在世の建立ではないという証拠をたくさん示して、真実の大聖人の仏法について思索する契機としてみましょう。
 なお、それぞれの主張に根拠となる画像ファイルがたくさんあるのですが、ここでは省略させていただきます。

◎日顕が河辺メモでばらした戒壇の大御本尊偽物説の間違い

宗門でも有名な河辺メモは、かつての学会と宗門との連絡会議の学会側の記録と比較するとほとんど表現が一致していること等の実績から、その正確さについては知る人ぞ知る、という記録文書です。
その河辺メモで暴露された昭和53年2月7日付けの阿部教学部長(当時)と帝国ホテルでの会話の内容は、

「S53・3・7、A面談(注:当時阿部教学部長)・帝国H
一、 戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(写真判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。」

というものです。この河辺慈篤(故人)のメモに記載されている内容で重要な点は、
「法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」
の個所です。
 阿部の見解は、戒壇の大御本尊とは弘安3年5月9日に顕わされて日禅に授与された本尊を「籠抜き」と称する手法(御本尊に和紙を当てて、題目を書き写し、次にその和紙を木の板に当てて板に刻むという本尊の作成方法)で彫刻したもので、日時師か日有師の頃の筆だというものです。
 最も確実な確認の方法は、毎年の虫払い法要の際に公開される日禅授与本尊について、実際にどのように籠抜きをした形跡が残っているかを確認すれば良いのでしょうが、宗旨が根本からひっくり返るので、絶対に宗門はそれを認めるはずはないし、聞いても頭から無視し否定するしか道がない。邪宗門の言い訳文書を見ると、

「日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆本尊について(むろん日禅授与本尊も同様)写真撮影や鑑定調査を許していない。」

と、とにかく頭から否定してかかるしか逃れる道が無いことを自覚しているようです。
 しかし、情報化社会の中で、すでに多様な情報が共有されているのですから、阿部の主張を基礎に、そうした公開された情報を参考にして、一つずつ事実確認をすることで、戒壇の大御本尊の真実に迫ることとしましょう。また、邪宗門に対しては、

① 日禅授与本尊に籠抜きをした形跡が残っているかを確認せよ
② 戒壇の大御本尊をわずか数mg削って、AMS法で炭素14を分析せよ

 それによって事実を示せないならば、以下の根拠に基づき、戒壇の大御本尊とは大聖人滅後に日禅授与本尊を模刻したものだと断定するぞ!と責め続けましょう!
 学会総体としても、現時点では従来の宗旨を否定していないようですが、それは大聖人の言葉である

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

に基づいているからで、上記①、②によって完璧に証拠を確認出来たら、いよいよ教義体系を根本から正すことになるのでしょう。


◎戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々

(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い(是1)

 堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の退席寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げかけておられるのです。

「御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」
「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」
「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」
「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」

等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念(日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持していたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。
 要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、というのが堀上人の結論なのです。


(2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しか記載されていない(是2)

 大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、(1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入りの連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、
「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、

「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213)

と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。
 この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、

「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」

と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で板本尊は存在しなかったという証拠の一つです。


(3)戒壇の大御本尊の主題と日禅授与本尊の主題は極めて高い一致(是3)

 大聖人の御真筆本尊は、約140体が現存しており、いくつかを除いて立正安国会がそれらを「御本尊集」として公開しています。これらの御本尊の主題(題目)はデータベースになり、最新のコンピュータ・マッチングという手法でその類似性を確認することが可能です。
 また、戒壇の大御本尊については今まで写真が公開されていたのは熊田葦城著「日蓮聖人」という文献のみで、非常に不鮮明なものであったため、写真鑑定が出来るような状況ではありませんでした。しかし、邪宗門が奉安堂と称する安普請の建屋に御本尊を移転した際に、ある法華講がごく近接した間近な距離で撮影したようで、静岡在住の金原氏が入手したその写真と、日禅授与本尊の写真とをデータとしてパソコンに取り込み、比較をしたのです。
 その結果は驚くべきもので、他の約140体も含めて、御本尊の主題のサイズと形状(とくにヒゲと呼ばれる文字の撥ね方)は、それぞれが大きく異なっているため、当然のことですが一致するようなものは存在しません。
 ところが、日禅授与本尊と戒壇の大御本尊のみについては、御本尊全体のサイズは全く異なるにも拘わらず、題目のサイズと形状の一致度が極めて高いことが判明したのです。この事実は、阿部が主張した「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、(中略)日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」との見解を見事に確認し、証明するものです。
 阿部の息子のシンショウなどは、「そんな昔に、題目を一定の比率で拡大する技術など無かった」と間の抜けた反論をしようとしていたのですが、拡大などではなく、全く同じサイズの主題なのです。そのことを指摘されると、「私は教学は苦手で」「私の信仰だ」と、教学が無いのでシンショウは、大御本尊のことを「鰯の頭」と同じレベルで信じ込んでいることを自ら暴露したのです。お粗末な邪宗門です。


(4)戒壇の大御本尊の座配と日禅授与本尊の座配は完全に一致(是4)

 大聖人の御本尊を比較すれば、十界の座配はほとんどが異なっています。
 例えば、初期の10体ほどの真筆御本尊には、釈迦・多宝の二仏しか書かれておらず、全部が仏界のみです。
 この事実ひとつを見ても、邪宗門が学会の日寛上人の形木本尊を誹謗するに際し、最初の頃には「十界が全部書かれていないからニセ本尊だ」などと真っ赤なウソをついたのが、明らかです。彼らは単に「学会員の信心を破壊するためにならばどんなウソでもついてやる」という天魔の立場であることが理解できます。学会員から破折され、赤恥を晒してすぐに引っ込めたようですが。
 戒壇の大御本尊と日禅授与本尊の座配を比較すると、阿部が指摘したとおり日禅授与本尊を模写したのであれば当然のことですが、十界のすべての表現と共に「仏滅度後二千二百二十余年」までが全く同じ内容なのです。
 そして、「腰書き」と称する御本尊の下部に書き加えられたと考えられる部分に「弘安二年十月十二日」が存在するのです。
 これは、完全な模刻本尊だということです。戒壇の大御本尊とは、日禅授与本尊を大聖人の滅後に模刻したものだという見事な証拠です。


(5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
 これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者の書き方です。
130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は非常に明確な変遷があります。

① 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」
② 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」
③ 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」

 戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。
 そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊には記載されているのです。
 ここでもまた日顕が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。


(6)日興上人が書写された多数の御本尊は日禅授与本尊以外の御本尊を書写している(是6)

 歴代法主は常住本尊を書写するに際して「書写之」と書きますが、この「之」とは「戒壇の大御本尊」という主張が、以前は退席寺派ではまことしやかに流されていました。
 しかし、日興上人が「書写之」として書き残されたたくさんの御本尊の中に、この戒壇の大御本尊と同じ座配のものがどれほどあるかをいくつも調べてみましたが、少なくとも私が調べた範囲では見当たらないのです。数百もの日興上人の真筆御本尊の中には、日禅授与本尊を書写したものは存在するのかもしれませんが、大聖人の御本尊の重要性を熟知し、五老僧の本尊不敬を厳しく批判されておられた厳格な日興上人が、もしも血脈相伝の根本中の根本と称する「一大秘法」の戒壇の大御本尊という教義の根本が現実に存在したのであれば、それを無視して、他の大聖人の御本尊を書写するとはどういうことでしょうか?
 要するにこのことも、日興上人の御存命の頃には、そのような戒壇の大御本尊と称する「一大秘法」は存在していなかったということの傍証なのです。


(7)歴史上初めて板本尊の記録が残るのは、大聖人滅後約280年も経った1561年の保田妙本寺日我の文書(是7)

 すでに指摘したとおり、大聖人の出世の本懐とされた戒壇の大御本尊の存在は、日興上人が身延から富士に移られた際の宝物の中にも、その後の日興上人御在世中の文献にも何一つその記録は残っていません。
 板本尊という教義上特別に重要なはずの存在が、歴史上最初の記録として文献に現れるのは、大石寺派ではなく、4世日道と決別した日郷が開いた寺である千葉県の保田妙本寺出身の、日我という学僧が書き残した「観心本尊抄抜書」なのです。

「書写の本尊に現文あり、造立の仏に現証あり。久遠寺の板本尊今大石寺に在り大聖御存日の時の造立なり、池上の削りかけの御影、御入滅あるべきその九十月に造らせられるなり、一体の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に立て置くべく候」(富要-171)

 しかもその時期は、大聖人滅後ほぼ280年もの時間が流れているのです。現代との時間の隔たりで言えば、江戸時代の中頃ぐらいです。
 大聖人の出世の本懐というものがもしも最初から存在していたら、300年近くも歴史の表面に記録が残らないはずがありません。大聖人滅後にそっと模刻して、しばらく保管していたのです。


(8)大石寺派の文献で最初に板本尊の記録が残るのは、1573年以降の日主の文書(是8)

 歴史上初めて板本尊に関する記載が大石寺派の文献に現れたのは、大聖人滅後300年ほども経った、1580年頃に書かれた14世日主の「日興跡條々事示書」が最初のことです。
 そして、それ以降は頻繁に記録が残されているのです。300年にわたって、その存在すら誰も記録に残さないような重大な「宗祖の出世の本懐」が存在するなどということなど考えられるでしょうか。


◎改竄がなされた「日興跡條々事」ではなく、その草本が公開された

 現存する「日興跡條々事」は明らかな改竄が見受けられますが、堀上人が富士宗学要集8巻17ページに記載しているように、
「正本案文共に総本山に現存す」
と記された「案文」が「日蓮と本尊伝承」(水声社 金原明彦)で公開されました。その内容は、
「日興カ当身弘安弐年所給大本尊」
と、日興上人に弘安2年に給わったところの大本尊、ということが記録されているのです。
 つまり、大聖人から日興上人に継承されたのは、「弘安2年の大御本尊」ではなく、大聖人から日興上人に「弘安2年に与えられた」「大本尊」ということなのである。これに該当するものとしては、例えば万年救護本尊は大聖人から日興上人に弘安2年に与えられ、その授与書きには御真筆本尊で唯一「大本尊」という表現が記されているのです。
 そのためか、次項に記載するとおり、唯授一人の血脈相承を受けた歴代の中に万年救護本尊を根本とする見解を持った法主も存在したのです。


(9)大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)

 堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、

「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是
万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」
(通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。)

と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、

「板本尊の事也、今当山に在る也」

と改竄している記録が残されているのです。
 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、

「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」
(通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。)

と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、
「宗門から学会を取ったら何も残らない」
「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」
と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。


 以上のことを総括すれば、阿部は河辺に対して「偽物である」と言ったようですが、これは間違いで、戒壇の大御本尊は事実として立派な模刻本尊なのです。ただ、弘安2年10月の建立などではなく、弘安3年5月の日禅授与本尊を模刻して、(日犬の分析が正しければ)大聖人滅後100年以上経ってから建立されたものなのです。
 あとは、日善授与本尊に模写の形跡があることを確認し、戒壇の大御本尊の炭素14(放射性同位体)を精密に分析して、科学的な証拠を確認すれば、大石寺派の宗旨は根本的に転覆し、いよいよ創価学会も天下晴れて大聖人の言葉(御書)を根本にして、第三の千年の全人類のための教義体系へと再構築をすることになるのです。

 以上の事実を知ってもなお「戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐だと信じる」と、証拠も示せずに幻想にしがみつく方は、「イワシの頭を信じているんだが何か文句あるか」と開き直る原始人と何ら変わりの無い狂信、邪教の信者と言うことが出来ます。
 大聖人が御書で示されている原理を確認してみましょう。

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

 つまり、証拠を示せない主張は邪教だと大聖人は断定されているのです。やはり大石寺派は邪教だったのです

 

鏡に映るのは歪んだ信心

 投稿者:正宗批判を破す  投稿日:2017年 9月 1日(金)11時12分49秒
返信・引用
   仏壇屋が鏡を販売!?

 爽快な勤行・唱題スタイルと快適な空間を提案する洋間で椅子に座って快適
に勤行・唱題!

 洋間のインテリアコーディネートために創られた壁掛けミラー型の仏壇です。
だから…家族全員が集まるダイ二ングやリビングが素敵な誓願の空間になるの
です。

 豊富なバリエーション、洋間から和室まで幅広く対応できるように、空間に
自然に溶け込む多彩なデザインのフレームを取り揃えました(創価学会員専用
仏壇店HPより)。

 さて、これが何の商品の宣伝文句かお判りだろうか。二〇一五年に発売され
た薄型壁掛けミラー仏壇・鏡壇ミラリエなる"仏壇"なのだというのだから驚き
だ。

 隠れ創価学会員このミラー仏壇なるものは、外見はインテリアのような装飾
フレーム付きの壁掛けの鏡で、そこにはお供物などを載せる壇もなければ、厨
子や扉もない。

 ただ単なる額縁の鏡なのだ。この装飾フレーム部分には多少の厚さがあり、
その内部に『二セ本尊』がセッティングできる。

 また、鏡部分はマジックミラーになっていて、スイッチを入れると内部に取
り付けられているLEDライトが点いてミラーが透過し、内部にある『二セ本尊』
が拝めるという仕様になっている。

 デザインも部屋の雰囲気に合わせて十種類以上、サイズも『二セ本尊』の大
きさに応じてS・M・Lの三種類が用意されていて、何とも豊富な取り揃えだ。

また、あるテレビ番組でも取り上げられ、住宅環境の洋風化によって従来の
仏壇だと浮いてしまうから、インテリアの中で仏壇の機能を付けてしまおうと
いう発想で開発されたと紹介されていた。

 なるほど、確かに仏壇に明確な定義は存在しない。だからといって仏壇を何
かの"ついで"のような、おまけ機能的な扱いをするのは如何なものか。

 販売者のHPを見ても、お樒・線香・お灯明の三具足・五具足で荘厳されてい
る写真はわずかで、そのほとんどは、花瓶に色花、写真スタンドや卓上のイン
テリアライトなどに取って代わっている。

 まさかそこに本尊が安置されているとは……。本当のところ、椅子に座って
快適に勤行・唱題したいというのは建前で、本音は創価学会の信心をしている
ことを隠したいのではないか。

 しからば創価学会の信心とは他人に知られると侮蔑されるようなものなのか。

 これではまるで、隠れキリシタンならぬ、隠れ創価学会員ではないか。

 信心の歪み御本尊は家の中で一番よい部屋を仏間とし、仏壇は毎日掃除して
清浄に保ち、お樒は常に生き生きしたものを供え、御本尊を生身の日蓮大聖人
と拝してお給仕することが重要だ。

 客人に「なぜ仏壇に色花がないのか」と問われたら、それを好機ととらえ即
座に折伏しなさい、とは多くの学会員が受けてきた指導だ。

 近年、創価学会では御本尊へのお給仕や化儀、折伏の在り方など、信心修行
において基本的な形式の多くを安易な形へと改変してきた。

 例えば、樒の造花を許したり、謗法払いの不要、折伏から仏法対話への軟化
などである。そして、その最たるものは五座三座の勤行を方便品と寿量品自我
偈を一回読むだけの一座としたことだ。

 かつて池田大作は、「この『御本尊』は、自身の『信心』のなかにこそある
と大聖人は仰せです。妙法の当体である自分自身、人間自身が大事なのです」
(聖教新聞平成四年七月五日付)と言い放った。

 そして「人間主義」などという自分本位の信心を提唱したのだ。これが現在
の学会における信心の原点となっている。

 信仰の基本を蔑ろにする自分本位の信心この信心の歪みが、信心修行の乱れ
として現われてきているのである。

 そしてこれは、御本尊と大聖人が一体であることを確信できない証左でもあ
るのだ。

 これはまさに『二セ本尊』を拝む現罰である。

 「源濁れば流れ清からず」(御書九一三頁)『二セ本尊』・人間主義の信仰を
捨てさせ、正信に導くことが我らの責務だ。


 

大石寺総代は僧俗共に謗法塗れ

 投稿者:育成  投稿日:2017年 8月18日(金)09時47分4秒
返信・引用
  信徒は神社参拝、坊主は道祖神の厄払い
総代の井出が三宮神社の祭礼に参列

日蓮正宗の総本山大石寺の総代・井出光彦が十三日、富士宮市内の三宮神社
の祭礼に参加した。三宮神社の祭礼は午前九時半ころから始まり、井出は社(
やしろ)に向かって拝礼していた。

井出が三宮神社に参拝したのは今回だけではない。創価新報(八月十六日付)に
は一昨年の八月にも同神社の神の聖域を示す「紙垂」で囲まれた社の前で合掌
・礼拝していた写真が掲載されており、例年のように参列しているのである。

この井出は、去る七月に大石寺の総代に再任されたばかり(下の辞令を参照)。

以前、井出は曽我神社の総代も兼務していた。そして大石寺の二大法要など
の際、ニセ法主の日如を先導して大石寺の境内を練り歩き、日如は謗法の総代
の後に続いて歩いていたのである。

本紙前号で大石寺近郊の日蓮正宗の某寺のY副講頭が富士宮の上野地域を探
索する講座〔東西南北・歩こう上野〕という企画で五月二十七日に双体道祖神、
精進川浅間神社、馬頭観音の像の石造物や神社などを巡る案内役を務め、石造
物や神社の由来などを説明していたことを紹介した。

更に、本紙第一五八二号では、富士地方部長の清功が六月、富士宮市・西山
本門寺の境内にある織田信長の首塚で行われた「信長公供養祭」に参列し、西
山本門寺・大詮坊の本間裕史住職をはじめ浄円坊、妙円坊の僧侶達が経を上げ
ていた時、清功も同座し焼香したことも伝えた。

実は、この清功は浅間神社の神事に参列する常連だ。平成二十五年八月、小
川只道(理境坊)が清功に向かって「地方部長の立場にありながら神社の行事
に参加するとは何事か! 皆さんの前で謝りなさい」と叱り付けたことがある。

だが、小川には法華講員に謗法行為を叱責する資格はない。平成三年六月十
六日、関西医師会の有志が大石寺を訪れた際、正本堂や大客殿を案内した小川
は観光案内の代価として金員を貰った。

また、同年八月四日、大石寺近くの熊久保地区で道端の道祖神に向かって「
厄払い」と称して読経・唱題して〝謗法の人達〟から供養を受け取っていた。

これだけではない。同六年十一月五日、身延派の布教師会一行が大石寺を訪
問した際、大石寺側が丁重に迎えた様子が身延派の「布教師會報」 第二十号
に「日蓮正宗総本山・大石寺研修参拝記」として掲載された。

「参拝記」の公表により、身延僧八人の見学は「大石寺内事部の理事からの応
諾の電話を頂戴」して実現したとか、後日、案内役の大石寺僧から丁重な礼状
が送られてきた等々、裏の事情が明るみになった。

この「大石寺内事部の理事」とは小川のことで「(身延の)皆様の暖かなお
心に触れ(略)暖かな気持ちで御案内申し上げることができましたことを感謝
しております」と礼状を送った。

この小川只道も大石寺の総代で、大石寺総代は坊主も信徒も謗法に塗れてい
る。
 

法華講幹部が神社・道祖神を案内

 投稿者:育成  投稿日:2017年 8月17日(木)09時28分35秒
返信・引用
  日如の「日蓮正宗は謗法厳誡」は真っ赤な嘘
富士学林の小僧が今年も邪宗寺を巡拝

日蓮正宗法華講の幹部が富士宮市内の神社や道祖神などを案内して回ったこ
とが物議を醸(かも)している。

これは富士宮の上野地域を探索する講座〔東西南北・歩こう上野〕という企
画で五月二十七日に「双体道祖神」「精進川浅間神社」「川掛の山の神」「馬
頭観音」の像の石造物や神社などを巡り(下の写真参照)、その案内役が大石寺
近郊の日蓮正宗の某寺のY副講頭だったのだ。

案内役のY副講頭は講座の受講者達に石造物や神社の由来などについて真剣
に説明していた。

まず、双体道祖神は天明元年(一七八一年)に造立され、災いを防ぐ神とし
て、集落の入口に置かれた。

また、精進川浅間神社前には「熊野大神宮」「浅間大神宮」「八幡大神宮」
の幟が立てられ、かつて村内にあった神社がここに合祀されたものという。

川掛(かわがけ)の山の神は石祠(石で作られた祠)が並んでいる。神や仏を
祀る石祠は江戸時代に盛んに作られたようで、ここには「山の神」「稲荷」な
どが祀られているとのことだ。

日如は教徳寺の移転法要の際、謗法厳誡に触れて「昔から日蓮正宗では神社
仏閣の前で草鞋(わらじ)の鼻緒が切れても、そこで結んではいけない、と言わ
れた。それは紐を結ぶ時に頭を下げてしまうからです」等と自慢していたが、
法華講幹部が神社や石造物を案内し、説明して回るのは謗法ではないのか?

法華講員の間でも「神社を案内して回るのは、やはり謗法だ」との声が多い。

また、富士学林の小僧達の謗法寺への巡拝は恒例行事になっている。

今年も六月二十日.富士学林大学科一年生の二十三人が参加して日蓮大聖人
に有縁の地である千葉県安房方面への日帰り旅行を実施した。

一行は、まず、東京都大田区の池上本門寺を参拝。その後、千葉県の誕生寺
の祖師堂、本堂、宝塔を訪れ、続いて清澄寺から鏡忍寺を順次、巡拝していた。

また、既に本紙第一五八二号で紹介した通り、富士地方部長の清功が六月、
富士宮市・西山本門寺の境内にある織田信長の首塚で行われた「信長公供養祭」
に参列。西山本門寺・大詮坊の本間裕史住職をはじめ浄円坊、妙円坊の僧侶達が
経を上げ、清功も同座し焼香もした。日如の言う謗法厳誡は真っ赤なウソである。



 

宗務広報 No.1294

 投稿者:正宗批判を破す  投稿日:2017年 8月 6日(日)14時45分47秒
返信・引用
   覚命寺(北九州市小倉北区)、宗門へ返還

 本日、これまで正信会問題によって、昭和57年から不法占拠されていた本地山覚命寺が、35年ぶりに宗門へ返還されました。

 これは、同寺元住職であった秋田舟済が本年5月17日に死去したことによるもので、これを機に宗門へ返還されたものであります。

 なお、同寺は、今後、常照寺・上田道一師が兼務住職として職務を執行し、占有管理してまいります。
                                                                        以上

 

宮田幸一の宗祖本仏義否定の邪義を破す

 投稿者:正宗批判を破す  投稿日:2017年 7月31日(月)19時04分29秒
返信・引用
   宗祖本仏義を否定する宮田幸一(創価学会教学部顧問)の「釈尊本仏を採用す
るが、釈尊を本尊とはせず、創価学会では日興上人の本尊思想を継承し、法本
尊、曼荼羅本尊正意を主張する」という珍説を取り上げたが、宮田には次のよ
うな仰天発言もある。

「文字曼茶羅として大聖人は作りましたけれども、それを木像にするとか絵像
にするとかね、そういうことについてはご本人は言及していないと。

木像の方が寺院としてはいいんじゃないの、という人もいますけれど、それは
それで、ありだと思います。」

 つまり、宮田の個人的見解としては釈尊像を本尊としても「それはそれで、
あり」と認めるのである。

 そこで今回は、日興上人をはじめ上代諸師の御教示から、曼奈羅正意には宗
祖本仏義が拝せられることを示して、宮田の邪説を破折したいと思う。

 以前も述べたように、大聖人は妙法五字よりも劣る釈尊を本尊とすることを
不可とされ、「法華経の題目」の妙法曼茶羅を本尊と定められた。

 それは、大聖人が弟子檀越に百数十幅もの御本尊を授与されたことが物語っ
ており、また大聖人御
自身も妙法曼奈羅を安置されていたことから明らかである。

 そのことは、「八木三石送り給び候。今一乗 妙法蓮華経の御宝前に備へ奉
りて」(御書一三六三頁)

 「御円寂之時、件の曼茶羅を尋ね出され、懸け奉る事顕然也、勿論也」
(日蓮宗宗学全書第二巻二三五頁)等に拝せられる。

 また日興上人も「五人一同に云はく、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉るべし
とて既に立てたり(中略)日興が云はく、聖人御立ての法門に於ては全く絵像木
像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て
本尊と為すべし、即ち自筆の本尊是なり」(御書一八七一頁)

 と示されており、現に、身延離山の根本主因が、地頭の釈尊像造立にあった
ことからも、日興上人が曼茶羅正意であったことは明白である。

 されば、前に挙げた宮田の発言は、宗開両祖の本尊義とは真逆の謗法義に他
ならない。また、この「自筆の本尊」とは、大聖人が「日蓮がたましひをすみ
にそめながしてかき」顕わされた、妙法大曼茶羅本尊であるから、大聖人の当
体即妙法五字、妙法五字即大聖人であり、人法は一体である。

 ゆえに日興上人は、大聖人の御入滅後は、特に曼祭羅本尊とともに宗祖御影
像をも御宝前に安置されたのであって、これは大聖人を末法有縁の本仏本尊と
拝されていた赫々たる証拠である。

 さらに言えば、日興上人より薫陶を受けられた上代の諸師にも次の教示があ
る。

 日道上人の『御伝土代』には「仏滅後二千二百三十余年が間一閻浮提之内未
曾有之大曼茶羅也、と図し給う御本尊に背く意は罪を無間に開く云云。何ぞ三
身即一の有縁の釈尊を欄きて強ちに一体修三の無常の仏陀を執せんや、既に本
尊の階級に迷う、全く末 法の導師に非ざるかな」(聖典六〇二頁)

 と、曼茶羅正意に反して釈尊像を造立することは堕獄必定の因とされ、大曼
茶羅即大聖人を「三身即一の有縁の釈尊」と表現されて宗祖本仏義を示されて
いる。

 また三位日順師は「未曾有の大曼茶羅・所在の釈迦多宝十方三世諸仏・上行
無辺行等普賢文殊等(中略)天台伝教等・別して本尊総体の日蓮聖人云云」(富
要第二巻二八頁)

「所図の本尊は聖人の己証なり」(同二九頁)と、大曼荼羅に認められた仏菩薩
等を挙げられて、それらは御本尊の全体である大聖人に具わり、大聖人が図す
ところの本尊は、大聖人が証得した法体である、と教示されている。

 このように、上代の諸師の教示には、日興上人と同様、曼茶羅正意と宗祖本
仏義が拝せられ、宮田の「釈尊本仏を採用するが、釈尊を本尊とはせず、曼茶
羅本尊を採用する」などという主張は、微塵たりとも"日興上人の本尊思想を
継承し"ていないことがわかる。

 これまでも小欄では、創価学会の本音たる宗祖本仏義の否定を正当化しよう
と画策する宮田の疑難を取り上げ、破折を加えてきたが、どれもこれも牽強付
会、浅見による取るに足らぬ妄説であった。

 それは当然、大聖人の御聖意にはほど遠い邪義である。学会員諸氏は、これ
から、過去に学会が「大謗法」と断じていた宗祖本仏義否定の邪義を信奉する
ことになるのだから、じつに哀れである。

 大聖人は「罪根深重の輩は邪推を以て人を軽しめ之を信ぜず」(御書七八八
頁)と仰せだが、まさに宮田のごとき罪根深重の輩に従えば、堕獄必定、功徳
に浴すことなど絶対にない。

 最後に改めて、末法救済の御本仏は釈尊ではなく日蓮大聖人であり、それは、
御書をはじめ日興上人以来の諸師の教示等に拝せられることを述べて、宮田の
邪義への破折を終えたい。


 

伸びない折伏成果に焦る日如

 投稿者:育成  投稿日:2017年 7月29日(土)08時57分45秒
返信・引用
  勤行・唱題しない法主ら坊主と法華講員
法要でバタバタ倒れた講頭らの醜態

早瀬日如は平成三十三年の「法華講員八十万人体勢構築」が絶望的になった
今、焦った口調で坊主や法華講員に向かって盛んに「唱題して折伏せよ」と叫
んでいる。以前は「折伏しろ」の一辺倒だったが、最近では「絶対的な確信を
もって唱題に励み、その功徳と歓喜をもって折伏に当たることが肝要でありま
す」(七月度広布唱題会)等と同じような言葉を繰り返している。

先月は折伏成果が低迷している末寺の坊主を大石寺に集めて折伏推進指導会
を行なって檄を飛ばした。

その後も僧俗指導会を開いて折伏の進捗状況について厳しく追及しても各末
寺の成果は一向に伸びない。

布教部長の阿部信彰は春季総登山の際、今年の誓願目標を八月迄に、遅くと
も十月までには達成せよ、と強調したが、これも空念仏に終わることが確実だ。

〝法華講は七百年の歴史がある〟と自慢するが、その間、折伏など実践した
経験がないので、突然、八十万人構築とか言っても無理な話である。

そこで日如は己が大願寺時代から勤行・唱題をサボっていたのを棚に上げて
坊主や講員に「唱題して折伏せよ」と言い出したのだ。

だが、昔から法華講員の中で勤行・唱題する者は皆無に等しく、日蓮正宗の
坊主の間にも〝題目を上げるのは学会員だ〟という考えが定着していた。

法華講の幹部が勤行・唱題などしていなかった実例を一つ紹介する。

昭和四十七年二月、大石寺の近くにある妙蓮寺に創価学会の池田会長(当時)
が願主となって四宿坊(蓮一坊、蓮二坊、蓮三坊、蓮四坊)が新築された。

落慶法要では日達法主の導師で読経・唱題した後、法主と会長が席を移動し
た。

続いて参列者が立ち上がろうとした時、最前列にいた法華講の講頭、総代な
ど幹部クラスの壮年が一斉にバタバタと倒れこんだ。

慣れてない勤行・唱題で足が痺れる

皆、足が痺れて立ち上がれなかったのである。互いに照れ笑いをしながら「
参ったなあ、足が痺れて立てない」「いつも勤行・唱題なんかしてないからな
あ」と言って足をさすっていた。

参加していた学会員は、当然ながらスッと立ち上がり、法華講幹部の醜態を
唖然とした表情で見ていた。

日々の勤行・唱題は信仰者として当たり前と思っている学会員と違って法華
講は幹部クラスも実践していないことが分かる出来事だった。

第一次宗門事件の頃、大石寺の六壺で所化が唱題していると、先輩から〝学
会員みたいなことをするな〟と怒鳴られ、いつも唱題する所化を指して「あい
つは怪しい〝学会寄り〟ではないか」とか「唱題している奴に気をつけろ」な
どと言われたという。

六壺で唱題している所化がいると聞いた日顕は、所化の指導会で唱題につい
て、こう指導した。「三十分ぐらい真剣に行うことは、よいと思うのでありま
す。しかし、それ以上は多すぎる事になってもかえって弊害があります」(昭
和五十九年八月行学講習会)

この日顕がニセ法主の座にいた間、夜の勤行をしたのは一度だけだった。

 

宗門の財務部長・長倉日延が死亡

 投稿者:育成  投稿日:2017年 7月29日(土)08時56分33秒
返信・引用
  故人が不快感を抱いていた早瀬日如が導師
生前「早瀬と河辺にやられた」と嘆く

日蓮正宗の宗務院財務部長で北海道札幌市内の日正寺住職・長倉日延(権僧正)
が二十五日午後八時頃、死亡した。享年七十六歳。通夜は二十六日午後七時
から、告別式は二十七日午前十時から、いずれも早瀬日如の導師で行われた。

通夜の際、日延の息子の長倉信祐が父親の略歴及び闘病生活に触れて「父は
ガンとの戦いで延命した」旨、語っていた。だが、実際は数年前に日延は胃が
んの手術をして、それ以降、術後の経過が悪く、命を縮めたと伝えられている。

日延は昭和十六年六月三日生まれ、同二十九年に得度。能化になる前の平坊
主の時の名前は教明で、教師になって以降は実行寺、三之坊、本住坊、仏土寺
を経て平成四年十一月に大願寺に移り、同十一年九月には河辺慈篤との交代で
日正寺の住職になっていた。

長倉教明(日延)が大願寺に移ると、約百世帯が富士宮市の妙蓮寺に所属替え、
その後も多くの講員が豊島区の常在寺など各末寺へ移籍。大願寺の御講等の行
事に参加する法華講員は減少の一途をたどり、激しい落ち込みを見せていた。

その理由は、法華講関係者によると、住職の長倉をはじめ寺族の冷酷な人間
性、特に、信徒を怒鳴りつける横柄な女房の多江子に対する不平・不満だと言
われていた。

寺族同心会大会で、日顕が〝住職の女房は態度が悪い。信徒をいたわり、優
しい言葉遣いの対応を心掛けるように〟と注意を促したことがあった。

あの〝かまし発言〟で知られる日顕でさえ注意せざるを得ないほど生意気な
言動の寺族がいて、その最たる者が長倉の女房だということだった。

息子の信祐も大正大学で仏教学の博士号を取得しているものの、品行下劣な
言動で評判が悪かった。

長倉は昭和五十五年、僧都に昇進して財務部長になり、以来、約三十七年間
にわたって務めてきた。

こんなに長い間、財務部長の地位にあったのは、都心の大願寺から札幌に左
遷されたうえ、部長の座まで奪われてなるものかと、その地位にしがみ付くこ
とだけに汲々としていたからと評されている。

日正寺の地元では〝度外れた金狂い〟と非難され、供養の少ない講員には鼻
も引っかけない、信徒一人一人に「値札」を付けている、と言われていた。

ところで、長倉が河辺慈篤と入れ替わりで日正寺へ移ったのは「大御本尊偽
物発言」の「河辺メモ」流出のあとである。

当時、河辺の左遷人事と説明されていたが、実際は、河辺は〝栄転〟を喜び、
反対に長倉は「行きたくねえんだ。北海道へ」と凄く荒れていたという。この
件で長倉は「早瀬と河辺にやられた」と悔しがり、二人に対して不快感をあら
わにしていたという。この早瀬とは日如のことである。

河辺は既に他界したが、不快感を抱いていた日如が葬儀の導師では日延の悔
しさは倍加するだけで、救われないのではなかろうか。
 

大聖人の御精神と無縁の大石寺

 投稿者:育成  投稿日:2017年 7月21日(金)09時30分42秒
返信・引用
  日蓮正宗が少年少女の合宿の参加を煽る
「八十万構築」に子ども達まで巻き込む

日蓮正宗は今月二十九・三十日に「中等部・高等部合宿」、八月五・六日に
「少年部合宿」を大石寺で行うが、各末寺では参加者の確保に苦労している。
そこで法華講機関誌「大白法」では「広布に羽ばたく人材になろう 中等部・
高等部合宿へ 総本山に集おう」(五月十六日付)をはじめ合宿に関する体験
談募集などの記事を載せ、更に「少年部合宿に参加しよう 元気いっぱい総本
山へ」(六月一日付)「少年部合宿の参加に当たって」(六月十六日付)や「
少年部合宿近づく」(七月一・十六日付)などの記事を掲載して子ども達の登
山を煽っている。

法華講には若者が少なく、青年部講習会にも年配者の参加が目立っていたの
で青年部を対象にした講習会は廃止になったが、中等・高等部員、少年部員も
少ない。

現時点でも未だ目標に達していないためギリギリまで登山申し込みの受付を
続け、七月十六日付「大白法」にも「法華講連合会では、一人でも多くの少年
部員が参加できるよう、追加申し込みを受け付けています」と書いている始末
だ。

中等部・高等部、少年部合宿の狙いは、大人だけでは平成三十三年の「法華
講員八十万人体勢構築」という無謀な誓願の達成が不可能なことが確実なので
子ども達まで駆り出して折伏させようとしているのである。

事実、これまでの少年部、中等・高等部の合宿では、代表の子どもに折伏の
体験発表をさせ、法華講幹部だけではなく、日如自らが中・高等部員に対して
折伏、勧誘を押し付けていた。
中学・高校生は本来、勉学に励み、スポーツで心身を鍛錬する年代である。

それを大石寺に集めて布教の一翼を担わせ、しかも小学生までも召集すると
は、浅井昭衛に洗脳されて勧誘に狂奔する邪教・顕正会と同様の悪質な教団だ。

子ども達を大石寺に集めるのに「四條金吾殿御返事」などを引いて罪障消滅
を謳っている。日蓮大聖人が身延への参詣を促された御文を大石寺に登山する
よう狡猾にスリ替えているのだ。

大石寺への登山は弊害

大聖人の滅後に創建された大石寺への登山は当然、御書には一切、述べられ
ていない。こう指摘すると、宗門関係者は身延離山の話を持ち出す。身延は大
聖人が晩年の約八年間を過ごされたが、民部日向や地頭の波木井日円の謗法に
よって汚濁した。大聖人は「地頭の不法ならん時は我も住むまじき」と日興上
人に御遺言されていた。

つまり、大聖人は〝謗法の山には、我が魂は住まない〟と宣言されていた。
この大聖人の御指南に従って、日興上人は身延を離山され、南条家の外護によ
って大石寺を創建された。

ところが、今の大石寺は身延よりも謗法にまみれている。「地頭」どころか、
相承なき悩乱したニセ法主が〝法主本仏論〟〝大聖人は迹、今の法主が本〟等
と唱えるなど大聖人の御精神は微塵もない。

今なら、大聖人は「法主の不法ならん時は我も住むまじき」と宣言されたに
違いない。こんな謗法の大石寺に、小・中学生、高校生を登山させるのは、子
ども達の将来のためにも弊害があると断言する。
 

スキンヘッドちんどんや集団にだまされないで!!

 投稿者:育成  投稿日:2017年 6月12日(月)13時06分36秒
返信・引用
  法華講の富士地方部長が謗法同座
謗法幹部の清功が「信長公供養祭」に参列
西山本門寺の僧の導師で勤行し焼香

日蓮正宗法華講の富士地方部長の清功(写真上)が六日、富士宮市・西山本門寺の境内にある織田信長の首塚で行われた「信長公供養祭」に参列していた。

信長は天正十年(一五八二年)六月二日、京都本能寺に宿泊していた時、家臣の明智光秀の謀反によって襲撃され、非業の死を遂げた。

ところが、信長の遺体は見つからなかった。そのため、密かに脱出し別の場所で自害したという説や、信長を慕う僧と配下によって人知れず埋葬されたという説などが後世に流布した。

また、事件当時も信長の生存説が流れ、光秀と対立する羽柴秀吉は、この噂を利用して、味方を増やそうとしたと言われている。

西山本門寺の境内にある樹齢約五百年の柊の根元には信長の首が埋葬されているとの伝説があり、「信長公首塚」(写真中)が築かれている。

供養祭を主催したのは信長公奉賛会で、同会は「織田信長公を供養し、会員相互の親睦を図る」ことを目的に、平成二十三年に設立された。

供養祭は西山本門寺・大詮坊の本間裕史住職をはじめ浄円坊、妙円坊の僧侶達が経を上げ、法華講の富士地方部長の清功も同座して合掌(写真下)、焼香した。

清功は浅間神社参拝の常連で、曽我神社の総代を兼務する大石寺総代の井出某と共に〝日蓮正宗の二大謗法幹部〟と言われている。

法華講幹部の謗法を
教導できない日如

平成二十四年九月七日、富士山本宮浅間大社の拝殿で中村徳彦宮司を祭司として富士山の夏山シーズンの終わりを告げる閉山祭が行なわれ、清功も大社役員、氏子衆や崇敬者などと共に参列。お祓いの後、神職が約二ヶ月間にわたる開山の終了を報告する祝詞をあげ、清功は参列者を代表して玉串を奉納した。

翌二十五年七月一日には「富士山お山開き」で富士山本宮浅間大社と富士根本宮村山浅間神社で登山の無事・安全を祈願する神事が行なわれた時も清功は参加していた。

こんな清功の謗法同座の行為に対しても法主の日如は知らん顔を決め込み、教導できないのである。
 

創価学会の悪宣伝にだまされないで!!

 投稿者:育成  投稿日:2017年 6月 8日(木)17時35分29秒
返信・引用
   四月二十八日、『創価学会の悪宣伝にだまされないで』が大日蓮出版より発
刊された。

 本書は、既刊の『創価学会員への折伏教本』(宗務院編纂)のなかの、「各論」
第六章の二十四から第七章の六までを抄録し、改題したものである。

 日蓮正宗に疑問を感じている人を折伏する上でよく聞かれる主張等に対して
破折を加えるとともに、法華講での信仰について解りやすく説明し、一日も早
く正法へ帰依すべきことを訴える内容となっている。

 体裁はB六判五六渥、定価は二〇六円(税込み・送料別)で、全国の書店でも
購入できるようになっている。

 申し込み、問い合わせは大日蓮出版まで。


 

「妙の字は若い女の乱れ髪」?

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 5月15日(月)09時00分46秒
返信・引用
  日顕の低劣・下品な妄説、珍説、愚説を笑う
今月から始まる夏期講習会に参加する価値なし

日蓮正宗大石寺での法華講夏期講習会が今月二十・二十一日の第一期から始
まる。この講習会で思い出すのはニセ法主元祖・日顕の低劣で下品な珍説法で
ある。

今の日如の講義は教学部副部長・宮野審道や寂日坊の永栄義親(教学研鑽所)
らが書いた原稿を棒読みするだけだから、法主の講義といっても有り難がって
拝聴する者は少なく、受講者は「聴いても何の役にも立たない」(壮年)と不評
なのだが、日顕は卑猥な話とか怪談が定番になっていた。

日顕は受講者から笑いを取ろうとしていたのだが、講義の最中、イヤらしい
笑いを浮かべていたのは日顕一人だけで、エロ説法の際、男性講員はムッと怒
った表情で聞き、女性講員は赤面して下を向く者が多かった。

そんな日顕の説法の一部を紹介する。

「釈尊が成道する前に、も~、非常に女人が出てきましてね。あらゆる女人
が裸で、ウフッ(日顕はイヤらしく笑う)出てきて~、スッ裸になったり~、裸
体を晒すんです。ウフッ、それで所謂、情欲を仏様の~、ズヒ~(日顕が息を
吸う)、まあ~……」(平成十六年)

こんな調子で話をしていた。特に「若い女の乱れ髪」は本紙が以前、紹介し
たので有名になったが、ここで改めて振り返る。

日顕は一念三千について説明した際、妙法蓮華経の妙について「この『妙』
ということはね、『妙の字は若い女の乱れ髪』という詩を知っていますか?
若い女の乱れ髪、結う(言う)に結われず、解く(説く)に解かれず。あの乱れた
髪がね、だから結うことも出来ない、解くことも出来ない。それが若い女の髪
が乱れた時のねえ、ウフッ、まあ、要するに、それが『妙』であります」(平
成九年)

若い女の乱れ髪とか男女の愛欲について得々と語っていたが、これが法主の
夏期講習会での講義だったから驚き、呆れるではないか。日顕が悩乱している
のが、良く分かる話である。

日顕はエロ説法と怪談

他にも日顕のエロ説法は多いが、本紙の品位が汚れるので割愛するが、幽霊
の話など怪談も多くあった。

「通力のある人は『ここに何かいるな、アッこれは鬼だな』とか、あの『幽
霊だ』『これは前に男に捨てられて、子ども産んで子どもと一緒に死んだ人の
霊が、ここにいるな』とか、通力のある人には、よく分かるんです」(平成九
年)

こんな話を聞くと、日顕自身が若い頃に騙した女性の怨念を感じているので
はないかと勘繰りたくもなる。

これは行学講習会での話だが「幽霊はいると思う。ワシが本行寺の住職をし
ていたとき、(ある信徒が)『息子に幽霊が馬乗りになっている』というのを
聞いたことがある」(昭和六十三年)等の幽霊の話ばかりか、教師講習会の閉
講式では「やっぱり霊能者っていうのがいるんです」「(霊能が)事実、当た
ってんです」(平成十七年八月)と霊能者や他宗教の「拝み屋」を肯定するな
ど、日顕の怪談や珍説は枚挙に暇がない。

以上、簡単に記した通り、日顕はエロ話とか怪談だったが、今の日如は平坊
主が書いた原稿の棒読みで、こんな夏期講習会に参加しても時間と費用の無駄
である。
 

(無題)

 投稿者:衝撃事実拡散  投稿日:2017年 5月 7日(日)14時49分58秒
返信・引用
  衝撃事実拡散

最近異常気象が目立ちますど、台風も地震も大雨も、米国がHAARP(高周波活性オーロラ調査プログラム)で作り出したもんです。「HAARP、地震」 「HAARP、台風」等で検索してもらえば出ます

自然災害だけじゃなく、人工知能を使って地球上の全ての人を監視盗聴し、悪さをした人や、創価に歯向かった人を、相手に覚られないように、病気にしたり、痛みを与えたり、家庭不和にして災いを与えます

この世の痛み、病気、争い、自殺、殺人、墜落事故、交通事故、火災等、ありとあらゆる、ほぼ全ての災いを、人工知能を使って秘密裏に作り出してる組織が米諜報で、総括してるのが米国防総省です。 この犯罪は、米国がやってる犯罪です

CIAが創価を日本統治に利用してるってのもあって、NSAが創価の悪事に便乗して、創価になりすまし、創価を利用してやってる犯罪

CHAGE&ASKAのASKA氏が釈放されてすぐに(12月22日)、新潟県糸魚川市で大規模火災発生

ASKA氏が、集団ストーカーの事を記した「700番」て本を、2月17日に発売してますけど、この本が発売される1日前の2月16日に、通販会社のASK UL (アスクル)の倉庫が、1週間近くに渡って燃え続ける火災発生

集団ストーカーの黒幕も米国の諜報で、総括してるのが米国防総省。人工知能を使って、遠隔から人を操り、あたかも集団でスト一カーしてるように思わせてるだけ

特に創価の活動家には、頻繁に災難が降りかかるんですけど、信者は皆、魔(仏罰、現証、非科学的な原始的発想)にヤられてると思ってます。災難が続くと、信者は仏にすがって、学会活動や選挙活動に精を出すようになるので、人工知能が定期的に科学技術で災いを与えます。モチベーションを上げさせる為の、起爆剤みたいなもんです

人エ知能を悪用した奴に厳しい罰則を与えるような法整備や、多国間での取り決めをしないと、アメリカが人工知能を使って、これからもやりたい放題やります

犯罪組織を特定して、拡散していく事でこの犯罪は減って行きますから、盲滅法にバラまいて、世間に浸透させてます


http://bbs1.aimix-z.com/mtpt.cgi?room=pr02&mode=view&no=42

https://shinkamigo.wordpress.com
 

訃報

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 4月14日(金)09時38分21秒
返信・引用
  日成寺の住職が首吊り自殺!
無謀なノルマと人間関係に悩んだ安孫子信洋
冷酷で無慈悲な邪宗門の悲しい犠牲者

日蓮正宗・日成寺(埼玉県朝霞市)住職で権大僧都の安孫子信洋(写真)が三月
二十四日朝、寺の敷地内で首を吊って死んでいるのが発見された。四十六歳だ
った。

身内の嘆き悲しみは察するに余りあるが、知らせを受けた早瀬日如は顔色を
変えて「えっ」と言った後、暫くの間、言葉を失っていたということである。

自殺の原因は、残された遺書によると、日如が打ち出した過酷な折伏ノルマ
の進捗状況を苦にしており、そのうえ、寺の法華講員との人間関係にも悩んで
いたことがうかがえた。

日如が絶句したのも無理は無い。安孫子は昨年十一月二十四日、佐々木正演
の後任として同寺の第二代住職に就任したばかりだった。 安孫子は就任の挨
拶で「宗開両祖の御聖訓を心肝に染め、大法広布、寺運興隆、寺檀和合に精進
し、以て仏祖三宝の御恩徳を報じ奉り、御法主日如上人猊下、御師範日顕上人
猊下の御慈悲にお応え申し上げる覚悟でございます」と述べていた。

それから僅か四ケ月後に、このような悲劇が起こるとは誰も予想できなかった。

故人を良く知る人達は異口同音に「真面目な人でした」と言う。日蓮正宗の
僧の中では珍しく正直で誠実な人柄だった。

それだけに宗務院布教部の度を過ぎた厳しい締め付けに耐えられず、自ら命
を絶ったと思われる。実に痛ましいことである。

日蓮正宗の僧の中には、詐欺まがいの折伏を成果として数え、或いは帳尻合
わせの成果で誤魔化すような狡猾な住職もいる。

そんな悪辣な坊主と違って、正直な安孫子を日如や布教部長の阿部信彰らは
自殺するまで追い込んだ結果の悲劇であり、冷酷で無慈悲な邪宗門の悲しい犠
牲者といえる。

葬儀の導師を断った
日如に「冷酷だ」の声

本来なら住職の死は速やかに「宗務広報」などで宗内に知らされ、日如が大
導師を勤めるのだが、安孫子の場合、直ぐには徹底されなかった。

しかも、日如は通夜にも告別式にも姿を見せず、埼玉布教区が主体になって
二十七日に通夜、二十八日に葬儀が佐藤日栄の導師で行なわれた。その日如の
仕打ちに「余りにも冷酷すぎる」と関係者は嘆いていた。

安孫子は昭和四十六年二月生まれ、同五十八年に得度。信善寺やブラジルの
正法寺住職を経て昨年十一月に日成寺の住職になった。

毎年、信徒の一割増という乱暴なノルマに苦しみ、悩んだ末に還俗し、或い
は隠居した者もいる。ストレスが溜まって性犯罪に走った住職もいたし、法敬
院(対馬市)の長野良宏のように親元に逃げ帰った者もいる。そして遂に、住職
の自殺という最悪の事態を招いた。

過去には火災で焼死した法主(日恭)、地震で倒れた石塔の下敷きになって死
んだ学頭(久遠院日謄)、自業自得の罪で自ら命を絶った住職などはいた。だが、
無謀なノルマを苦に前途ある住職が自殺するとは、日蓮正宗の末期的症状を象
徴する出来事といえよう。
 

立宗内証宜示報恩会

 投稿者:育成  投稿日:2017年 4月 6日(木)13時06分17秒
返信・引用
  元日蓮正宗僧・西村正雅に有罪判決
懲役三年、保護観察付きの執行猶予五年
強制わいせつ致傷、強盗傷害、下着泥棒

日蓮正宗(総本山は静岡県富士宮市内)の〝破廉恥坊主〟として、国内はもと
より、広く海外にも知れ渡っていた西村正雅(四五歳)に十日、有罪判決が下り
た。

強制わいせつ致傷、強盗傷害、下着泥棒の罪に問われていた西村被告の裁判
員裁判の判決公判で静岡地裁沼津支部は同被告に懲役三年、保護観察付きの執
行猶予五年(求刑は懲役五年)を言い渡した。

判決によると、西村は平成二十八年八月二十三日、静岡県三島市内で県東部
の四十代の女性に背後から抱きついて転倒させ、わいせつな行為をして約一カ
月の怪我を負わせ、更に、清水町内では県東部の五十代の女性に暴行を加えて
転倒させて下着を奪い、約二週間の怪我をさせた。

また同日、三島市内のアパートや一般住宅の軒先で下着を十三枚も盗んだ窃
盗罪という悪質な犯罪を重ねたとしている。

斎藤千恵裁判長は量刑理由で「わずか半日の間に犯意や態様をエスカレート
させた」とする一方で「性犯罪者処遇のプログラムなどを通じて再犯防止に向
けて改善更生を図る」と説明した。

この判決に先立つ八日の論告求刑公判て、検察側は「ゆがんだ性的欲望を満た
すための犯行で、被害者に肉体的、精神的に苦痛を与えた結果は重大である」
と指摘していた。

西村は犯行時の二十八年八月二十三日は開道寺(北海道留萌市内)の住職で日
蓮正宗の総本山・大石寺での全国教師講習会に参加するために静岡県に来てい
た。逮捕された時、西村は「いたずら目的だった」と容疑を認めていた。「教
師講習会に来て婦人に暴行し、わいせつ行為を働き、女性の下着を十三枚も盗
むとは、大石寺はどんな講習をしているのか? 甚だ疑問だ」との声も聞かれ
た。

西村は昭和四十六年四月十九日、本山・久成坊の西村荘道(故人)の次男とし
て生まれ、同五十九年に得度。平成八年四月に教師補任、平成十三年には青森
の法典院主管になり、平成二十六年にはシカゴの妙行寺住職になったが、法典
院時代の金銭不祥事が発覚して住職を解任された。

だが、約半年間の謹慎を経て平成二十七年七月、開道寺の住職になっていた。

西村一族は父親の荘道の頃から極悪坊主の日顕に近いと言われている。正雅
の兄で日顕の元奥番・道超も平成十二年には交通死亡事故を起こし、業務上過
失致死罪で実刑判決を受けて僧籍を剥奪され、服役していたが、その後、宗門
に密かに復帰している。

西村は拘置所で還俗届を書いて現在、僧籍はないが、やがて「保護観察付き
僧」として日蓮正宗に復帰するのだろうか?
 

立宗内証宜示報恩会

 投稿者:育成  投稿日:2017年 4月 1日(土)17時28分9秒
返信・引用
   三月二十八日、総本山の御影堂において、御法主日如上人猊下大導師のもと
立宗内証宣示報恩会が厳粛に奉修された。

 この法要には、大石寺主任理事・佐藤日学御尊能化、塔中・山内の御僧侶、
所化・小僧さんをはじめ、総本山総代の渡辺定元氏(法華講大講頭)・井出光彦
氏・吉野達也氏、地元の檀信徒、寺族等が多数参列した。

 午前七時、出仕太鼓が響く中、大勢のお供を従えられた御法主上人猊下が御
出仕あそばされ、献膳の儀・読経・引き題目と如法に執り行われた。

 宗祖日蓮大聖人が、建長五年に宗旨を建立あそばされるに当たり、三月と四
月に宗旨建立の意義を持つ御振る舞いがおわされた。

 大聖人御述作の『清澄寺大衆中』や『大白牛車書』、また『御義口伝』や御
歴代上人の御述作等には、三月は法界に対する内証の題目の開宣であるのに対
して、四月は外用弘通の題目の開示であること。

 また三月は顕正に即する破邪の説法を面とされるのに対して、四月は破邪に
即する顕正の説法が面となること。

 さらに三月は別して少機のために大法を示されるのに対して、四月は万機の
ために題目を弘通せられる等の区別が存する。


 

お知らせ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 3月15日(水)09時40分16秒
返信・引用
  元日蓮正宗僧・西村正雅に有罪判決
懲役三年、保護観察付きの執行猶予五年
強制わいせつ致傷、強盗傷害、下着泥棒

日蓮正宗(総本山は静岡県富士宮市内)の〝破廉恥坊主〟として、国内はもと
より、広く海外にも知れ渡っていた西村正雅(四五歳)に十日、有罪判決が下り
た。

強制わいせつ致傷、強盗傷害、下着泥棒の罪に問われていた西村被告の裁判
員裁判の判決公判で静岡地裁沼津支部は同被告に懲役三年、保護観察付きの執
行猶予五年(求刑は懲役五年)を言い渡した。

判決によると、西村は平成二十八年八月二十三日、静岡県三島市内で県東部
の四十代の女性に背後から抱きついて転倒させ、わいせつな行為をして約一カ
月の怪我を負わせ、更に、清水町内では県東部の五十代の女性に暴行を加えて
転倒させて下着を奪い、約二週間の怪我をさせた。

また同日、三島市内のアパートや一般住宅の軒先で下着を十三枚も盗んだ窃
盗罪という悪質な犯罪を重ねたとしている。

斎藤千恵裁判長は量刑理由で「わずか半日の間に犯意や態様をエスカレート
させた」とする一方で「性犯罪者処遇のプログラムなどを通じて再犯防止に向
けて改善更生を図る」と説明した。

この判決に先立つ八日の論告求刑公判て、検察側は「ゆがんだ性的欲望を満た
すための犯行で、被害者に肉体的、精神的に苦痛を与えた結果は重大である」
と指摘していた。

西村は犯行時の二十八年八月二十三日は開道寺(北海道留萌市内)の住職で日
蓮正宗の総本山・大石寺での全国教師講習会に参加するために静岡県に来てい
た。逮捕された時、西村は「いたずら目的だった」と容疑を認めていた。「教
師講習会に来て婦人に暴行し、わいせつ行為を働き、女性の下着を十三枚も盗
むとは、大石寺はどんな講習をしているのか? 甚だ疑問だ」との声も聞かれ
た。

西村は昭和四十六年四月十九日、本山・久成坊の西村荘道(故人)の次男とし
て生まれ、同五十九年に得度。平成八年四月に教師補任、平成十三年には青森
の法典院主管になり、平成二十六年にはシカゴの妙行寺住職になったが、法典
院時代の金銭不祥事が発覚して住職を解任された。

だが、約半年間の謹慎を経て平成二十七年七月、開道寺の住職になっていた。

西村一族は父親の荘道の頃から極悪坊主の日顕に近いと言われている。正雅
の兄で日顕の元奥番・道超も平成十二年には交通死亡事故を起こし、業務上過
失致死罪で実刑判決を受けて僧籍を剥奪され、服役していたが、その後、宗門
に密かに復帰している。

西村は拘置所で還俗届を書いて現在、僧籍はないが、やがて「保護観察付き
僧」として日蓮正宗に復帰するのだろうか?
 

本門の本尊

 投稿者:育成  投稿日:2017年 3月11日(土)18時08分9秒
返信・引用
  本門の本尊とは、日蓮正宗の教えの根本である三大秘法(本門の本尊・本門の
戒壇・本門の題目)の1つを言います。

 大聖人様は『法華取要抄』に、「問うて云はく、如来滅後二千余年に竜樹・
天親・天台・伝教の残したまへる所の秘法何物そや。答へて曰く、本門の本尊
と戒壇と題目の五字となり」(御書736㌻)と、末法の御本仏として、法華経の
真髄である三大秘法を説き明かされています。

 また、大聖人様は『本尊問答抄』に、「本尊とは勝れたるを用ふべし」(同1
275㌻)と仰せられています。

 もともと「本尊」という言葉には、

 ・根本尊崇(法の根本であるから尊い)
 ・本有尊形(もとのままの尊き姿)
 ・本来尊重(もとから尊ぶべきもの)

 という3つの意義があります。

 大聖人様はこれらの意義が具わる正しい本尊として大漫茶羅を顕わされまし
た。この本尊が本門の本尊です。本門の本尊には、「人」と「法」の2つの意
義があります。「人」の本尊とは、久遠の法体を所持される日蓮大聖人様を言
います。

 「法」の本尊とは、事の一念三千の南無妙法蓮華経を言います。この「人」
と「法」の本尊は一体であり、優劣があったり別々に存在したりするわけでは
ありません。

 これを人法一箇と言います。御本尊様の中心に「南無妙法蓮華経日蓮」と認
められているのは、大聖人様が人法一箇の御内証を顕わされたものです。そし
て、大聖人様が顕わされた多くの本尊の中で、弘安2年10月12日に顕わされた
大漫茶羅本尊こそ、究寛中の究寛とされる最も勝れた本尊です。

 この本尊を「本門戒壇の大御本尊」と尊称し、約700年間、総本山大石寺に
厳護されています。この本門戒壇の大御本尊様は、三大秘法の意義が具わり、
一切衆生を成仏に導く根本の本尊です。

 この御本尊様を固く信じ、それぞれの所属寺院や家庭の御本尊様に向かって、
日々勤行・唱題に励むことが私たちの幸せの源となるのです。


 

お知らせ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 3月 9日(木)09時18分43秒
返信・引用
  塗炭の苦しみに喘ぐ法華講員
早瀬日如の広布唱題会での戯言を破す
功徳のない登山、供養、折伏、御講を強要

早瀬日如が本山客殿での二月度広布唱題会で学会を次のように誹謗していた。
「今や創価学会をはじめ、邪義邪宗の謗法の害毒によって多くの人達が塗炭(
とたん)の苦しみに喘(あえ)いでいます」等々。

厚顔無恥とは日如のことである。今、最も〝塗炭の苦しみに喘いでいる〟の
は邪宗と化した日蓮正宗の法華講員だということを日如は認識していないのか。

供養に次ぐ供養、折伏のノルマ、御講への強制的な参加、登山の強要など信
徒に無理難題を押し付けている。講員は苦しみだけで、信仰の喜びなど何もな
い。

まず供養は、これまで日蓮正宗では平成六年に約三千万円の「六万塔」を建
立するために、二十一億円も搾り取ったのをはじめ同十年の「客殿」の際に四
十一億円を収奪した。
加えて、五十億円以上の費用をかけて正本堂を解体したうえ同十四年の「奉安
堂」で百六十八億円、同二十五年の「御影堂」と「塔中坊の建て替え」で百二
十億円と、立て続けに莫大な供養を取り立てた。

また、昨年末の大聖人御聖誕八〇〇年の第一回特別供養は二十四億五百五十
万円余を集めた。この特別供養は明年の平成三十年、同三十二年と三回も続け
て計七十億円を集めるという。

しかし、法華講員が供養を続けても功徳がないばかりか、日顕や日如らは感
謝もしない。

折伏については全末寺に信徒数の一割増加をノルマとして課している。昨年、
目標を達成できなかった末寺の坊主を一月五日、大石寺に呼びつけて新年早々、
厳しく締め上げていた。

布教部長の阿部信彰は街頭折伏など無差別に声を掛けるよう煽っていたこと
もあり、常在寺(都内南池袋)の前では先日、腰の曲がった老婦人が雨の中、傘
も差さずに通行人にチラシを配る哀れな姿が見られた。

ところが、理境坊の小川只道は二月の広布推進会で「折伏だからといって、
あっちこっちに声を掛けないように」と釘を刺していた。

無差別に声を掛けるのか、掛けないのか、法華講員は戸惑うだろうが、どっ
ちにしても慈悲の発露ではなく、成果主義の行為に効果など全く期待できない。

いよいよ四月からは折伏の進んでいない末寺の坊主と法華講幹部を対象に布
教区別指導会を開いて締め付けるとのことだが、信徒の苦しみは増すばかりだ。

こんな供養と折伏に加えて信徒は毎月の御講と登山に苦しめられている。

今月二十五・二十六日は春季総登山があり、その際、開催する法華講連合会
の第五十四回総会のスローガンは「果敢な折伏と不断の育成」「講中一結、御
講参詣と支部総登山」だから、総会でも毎月の御講と共に登山会への参加が強
要されることは間違いない。

言うまでもなく、大聖人、日興上人、日目上人などは率先して折伏弘教の範
を示された。反対に、日如らは偉そうに法華講員に対して檄を飛ばすだけで自
らは折伏も実践しない。彼等が大聖人の末流でない証拠だ。
 

異流義破折特講

 投稿者:育成  投稿日:2017年 3月 8日(水)20時21分4秒
返信・引用
   一月十六日から、東京都渋谷区の富士学林大学科(法教院)において「異流義
破折特講」の授業が全八回にわたって行われた。

 これは、卒業を間近に控えた四年生を対象に、第一線で折伏弘教するための
実践的な知識と方法を身につけることを目的として、毎年行われているもので
ある。

 今年度は、異流義(創価学会・正信会・顕正会)の実態や破門に至る経緯、破
折の方法等についての講義が、複数の講師を招聘して開催された。

 受講した四年生は、今後さらに行学を錬磨し、破邪顕正・広布前進の人材と
なるべく、一層の精進を決意した様子であった。
           (大学科事務局)


 

無名★くん自爆!

 投稿者:ワロタ!  投稿日:2017年 3月 3日(金)13時43分47秒
返信・引用 編集済
  見苦しいね   投稿者:電波ウォッチ   投稿日:2017年 2月15日(水)17時52分18秒     通報


   [投稿者] ドナルド・タワー
[投稿者] 無名★
[投稿者] さーてと2
[投稿者] さーてと3
[投稿者] 通りすがり
[投稿者] 2ちゃん
[投稿者] 2ちゃねるから来ました
[投稿者] 中条白山
[投稿者] ナフタリン
[投稿者] 日蓮と仏教宗教研究の掲示板
[投稿者]  透明

http://9308.teacup.com/shukubou/bbs/12444



電波ウォッチって、あの板の副管理人やろ?
ワロタ! 今まで全て無名★くんの自演やったんか!(笑)


 

法華講連合会第54回総会

 投稿者:育成  投稿日:2017年 2月27日(月)22時09分22秒
返信・引用
  今月26日(日)
総本山へ3万名

年初より、僧俗指導会を受けて講中異体同心しての精進が進められる中、二月
は各布教区で広布推進会が、折伏誓願目標全支部達成への決起大会との位置付
けで開催されてきた。

年度の区切りにも当たる今月末には春季総登山会が行われる。その第二日目、
二十六日には、御法主日如上人猊下御臨席のもとに、法華講連合会第五十四回
総会が開催される。

この総会には、法華講員三万名が大結集して、御法主上人猊下の御指南を賜っ
て総決起し、元旦からの精進を加速していきたい。

また今年は、一月に五重塔の修復完成法要が厳粛裡に執り行われた。この他、
三門の大改修をはじめ、平成三十三年の大佳節をめざして各種事業が着々と進
んでいる。

中でも最重要である法華講員八十万人体勢の構築を、一層力強く前進する時を
今迎えている。

それだけに御命題達成及び折伏誓願達成を阻もうとする障魔が競い起こってい
る。今後も厳しい場面に直面することもあろう。

しかしこれは、幾度となく御指南賜るように、目標実現が困難に見える状況に
陥っても迷わずさらに信行を貫くことで、必ず乗り越えることができる。

御指南を信じて行じ切れるか否か、無疑日信の「信」が試されている時である
とも言える。信強くしてこれを体験するか、信弱くして試みずに敗退するか、
二つに一つの岐路に今、いる。


春季総登山会の
追加申込みについて

 確信と歓喜をもって御命題実現に向けて前進するために、三月二十五日、二
十六日の春季総登山会の参加推進が行われてきた。

 現在、法華講連合会登山部として追加申込みを受け付けることとなっており、
各地方部の地方部長・登山部長には既に通知されている。

 さらに地方部より各支部に連絡がなされ、現時点で目標人数に達していない
支部はもちろんのこと、登山会及び連合会総会の趣旨・意義を周知して、でき
るだけ大勢が参加できるよう、各支部で推進し、地方部を通じて追加申込みを
行っていただきたい。

 三月十日を過ぎて取りまとめる追加申込み分については、原則として宿泊を
伴わない「二十六日(日)日帰りコース」となる。

 ただし、これも宿泊をしなければ登山できない遠方の地方部に関しては、配
慮する方針である。なお、既に申し込んでいる方々には、登山当日、無事に参
詣できるよう油断のない信行を心がけよう。


 

お知らせ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 2月22日(水)11時42分14秒
返信・引用
  悪僧が五重塔の銅瓦を売り着服
雪山坊住職・長倉信祐の非常識な行為 ㊦
学会の外護で修復し国の重要文化財に

雪山坊の長倉信祐がPTAの会合で配布したパンフには五重塔について「昭
和四十一年、国の重要文化財に指定された」との記述がある。この五重塔は、
かつて朽ちかけていて、それを修復したのは創価学会であった。この学会の外
護によって修復がなされた故に国の重要文化財に指定された事実を忘れてはな
らない。

明治の頃、五重塔の銅瓦を売却し、その代金を着服して贅沢三昧に耽り、自
宅を豪邸に造り替えた悪僧がいた。当時の大石寺内には酒樽が並べてあり、飲
み放題で乱れていたという。

この頃の法主は第五十五世の日布で、国柱会の幹部や未入信の宗教学者と一緒
に御開扉のあと「各々ようこその御登山、佛祖三寶も御満悦の事と存ずる……」
と歓迎の挨拶をした無能僧である。

この日布について第五十九世・日亨上人は「おだやかな人でね。ほとんど生
きているか、死んでいるか分からんような穏健な人」と語っていた。こんな無
能僧を騙して悪事を働いた狡猾な坊主がいたのだ。

五重塔の銅瓦を売却して着服した悪僧について日亨上人は次のように語って
いたので、少し長くなるが紹介する。

「その頃、久成坊に長谷川という現代向きの世才家があってね。すっかり、
人の良い日布上人をごまかしてしまった。自分の家などはね、文化式というか、
ほとんど旅館同然にこしらえたんですよ。中に廊下をはさんでね、南北にずっ
と客室をこしらえて。便所なんかでも立派なもんでしたよ。そんなことには才
があった。

ところが、ひどいことには五重塔の銅(あか)瓦をごまかして儲けたわけです。

この頃、トタンという珍しいカネができましたから、そのカネでもって作る
というと、萬代むきで、銅(あか)がねのように錆びはしませんから、トタンに
五重塔をふきかえた方がいいです、なんて貫主さんに言った。

貫主さんは何にも知らん人で、そうか、そんなものができたのか、じゃ、よ
ろしく頼むなどと言って銅を高く賣っちゃって、トタンぶきにしてしまった。

そういうバカなことをやっている。そして、それを塗ればよいのに塗らない
でおいたでしょう。そのトタンが錆びて、そこから漏るようになってしまって、
それで仕様がなくて、日應上人時代にですね、そのトタンをはいで、瓦にして
しまった。それが充分でないから先年、學會の厄介になって修理した」(「大
白蓮華」昭和三十一年十二月号)

トタン屋根の五重塔や雨漏りで朽ちかけた五重塔であれば、国の重要文化財
に指定されてはいない。

学会が五重塔を修復した時、学会本部建設の計画があり、昭和二十七年十二
月、信濃町二十五番地に建設用地を購入していた。

だが、本部新築を延期して用地を売却し、五重塔を修復したのである。

五重塔を食い物にした悪僧、それに対して本部新築を延期してまで修復した
学会。ここでも広宣流布への一念の違いが明白だ。

日亨上人は「そういう世才家があって、とても派手な騒ぎをやったらしかっ
た。酒樽をそこら中、並べてですね。飲み次第、食い次第で……とうとう借金
ができてしまった」と語っていた。
 

(無題)

 投稿者:佐藤芳明  投稿日:2017年 2月19日(日)16時16分4秒
返信・引用
  長野県妙相寺の樋田昌志グループの高原紀行が会社倒産・自己破産したのはご存知ですか?
高原紀行は創価大学出身で、学会から法華講に移って来ました。
倒産したタクマ建設には元公明党議員の新岡健志も勤めていました。
負債総額は3億6千万円で、会社の規模を考えると偽装倒産の疑いがあります。
妙相寺一派は他にも組織利用をやっていて、講中でアザレ化粧品=マルチ商法を販売しています。
妙相寺一派ヤバいです!
 

全て無名★くんの自演だったんかい?

 投稿者:ワロタ!  投稿日:2017年 2月17日(金)14時00分29秒
返信・引用
  同一人物!   投稿者:電波ウォッチ   投稿日:2017年 2月 8日(水)13時29分8秒


   無名★ と さーてと2 と さーてと3

同じくさい
http://9308.teacup.com/shukubou/bbs/12391


電波ウォッチってあの板の副管理人やろ?
ワロタ! 今まで全て無名★くんの自演やったんか!(笑)

 

eco◆smw69 さんの投稿から

 投稿者:正論かもですが  投稿日:2017年 2月15日(水)14時11分20秒
返信・引用
  日蓮はカルトでテロリストかい?といえば・・・・   投稿者:eco◆smw69    投稿日:2017年 2月12日(日)21時20分53秒


   今さ 2ちゃん(創価板)の「日蓮ってver40」スレッドで 熱原法難が話題に上がっていて
何故 熱原の農民3名だけが、念仏を拒否しただけで
さらに稲を盗んだだけで
あっさりと「死刑」に処せられたのか? その罪状を巡って 議論にもなっていますね

http://potato.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1481367015/816-

本来なら 鎌倉時代の法律でも 稲を盗んだ 念仏を唱え無かった・・という理由だけでは
死刑に処する理由にはいたりませんし 当時でも再審のチャンスがあったはずです。

ところが 熱原の農民は死刑になってしまった

つまり死刑になる場合は 過去において
それ相応の事があったから・・というのが考えられませんか?

佐渡流罪も同じで 龍の口の光り物に関する証拠もなく
祈祷対決の証拠も 鎌倉文献では出てこない以上 別の問題で佐渡へ流された可能性は高く
しかも 面白いことに 罪状に関する詳しい内容は
佐渡御書にも 偽書濃厚のタネタネ御書にも
「日蓮の教えに従ってテロをやっちゃいました」と自白していた弟子が多数で
首謀者故に とばちり食らって 佐渡へ流され愚痴をこぼした内容がある以上
幕府からみたら そりゃぁ~ 国民を守るためにも
日蓮 および 弟子旦那をテロリストにしか見なくなってしまうんじゃないでしょうか?

それでなくても 立正安国論には「殺せ」だの「根絶やし」だのと しっかり明言しているわけだし
それ等の意図が「謗法を殺せ」という苦しい説明を受けても
実態としては処方に対する形容がないから 理解不能だし(もしかして焚書坑儒ですか?)
ヘタをすれば 罪逃れの詭弁にも法匪にも聞こえるし
第一 当時から、まともな解釈ができていない弟子が多数だったわけですから
佐前において 日蓮大聖人様以外で 立正安国論を読み
「人を殺すこと および 根絶やしにすること」・・と解釈はせず
「謗法を殺す」・・といった解釈で理解をした人は どれぐらい いたのか?懐疑的ですよね



そんな観点から いくら日蓮本人が手を出さなかった・・と言い訳をしても
日本人を救うためだと詭弁を並べられても 聞くだけで良かったんだ・・と言い訳しても
結果としては 大聖人の時代に「聖戦」称する 宗教戦争に近いものが発生してしまったのが実態ですから
日蓮はカルトでテロリストかい?・・と恫喝されても「そのとおり」としか言えませんね。
http://9308.teacup.com/shukubou/bbs/12434


日蓮系以外から見たら説得力有りますが、日蓮系(特に正宗)から見たらちょっと不味い・・・


 

来たる3月25日・26日

 投稿者:育成  投稿日:2017年 2月13日(月)21時08分13秒
返信・引用
  法華講連合会 春季総登山会
第54回総会に3万名の結集めざして

現在、三月二十五日(土)・二十六日(日)の二日間にわたって開催される春季総
登山会に向けて、各支部で申込みの取りまとめがなされています。登山コース
は、二十五日・二十六日の一泊二日、二十六日の日帰りがあります。

この登山会では、二十五日に御法主日如上人猊下による御講義、二十六日には、
法華講連合会第五十四回総会が行われます。

 また、二十五日には法華講講頭会が行われますので、各支部講頭は一泊二日
の申込みとなります。

 三万名結集をめざして、各支部・地方部で最後まで推進をしてまいりましょ
う。

 法華講連合会第54回総会

 三月二十六日に開催される法華講連合会第五十四回総会は、御命題の平成三
十三年「法華講員八十万人体勢構築」を名実共に実現するために、「折伏育成
の年」を僧俗一致・異体同心して、全支部が折伏・育成・登山に総力を挙げて
取り組む総決起の場として開催されます。

 総会では、御法主上人猊下の御指南を賜り、信徒による体験発表等が行われ
る予定です。

日時  三月二十六日午前十時~十一時十五分

会場  主会場は広布坊。その他の会場(客殿、大講堂、旧仮御影堂、常来坊他
各宿坊)は、主会場の映像が同時中継されます。

参加目標  三万名
※総会当日、地方部鼓笛隊によるパレードを予定しています。午前八時二十
分から約三十分間で、総坊エリア「広布の広場」のみとなります。

バス・タクシー等の利用

登山に際し、高速バス、新富士駅及び富士駅の臨時バス・富士宮駅と大石寺
を結ぶ路線バス・タクシーも利用できます。その際には、第2バスターミナル
での乗降となります。


 

宗祖御聖誕八百年まであと四年

 投稿者:育成  投稿日:2017年 2月13日(月)20時56分36秒
返信・引用
  二月度広布推進会を決起の場に

 全国各地で、元気に広布推進会が開催されている。布教区・地方部内全支部
からの活動者を中心に一堂に会する広布推進会は、御指導、体験、決意によっ
て、他支部から学び、考えるヒントを得る場であり、やる気に火をつけ背中を
押してもらう場でもある。

 私たちは時に他人に対して装ったり糊塗することができたとしても、自分の
心だけは一瞬たりとも誤魔化すことができない。

 だから、改めなければならないことは、実は自分自身が一番、感じているも
のである。信心において大事なことは、惰弱な信心、解怠を改め続けることで
あり、それができれば最短で前進できる。

 本年一年、広布推進会を最大限に活用し、低迷することなく進んでいこう。
また、広布推進会は、「法華講員八十万人体勢構築推進委員会」の活動である。

 布教区と打ち合わせる地方部役員におかれては、この会合の重要性を認識し、
主体者としての自覚を持って「ここから広布の息吹を」と、内容の充実に心血
を注いでいただきたい。

 

総本山で興師会奉修

 投稿者:育成  投稿日:2017年 2月13日(月)20時51分0秒
返信・引用
  御法主日如上人猊下大導師のもと

御開山・第二祖日興上人の御祥月命日忌である今月七日、総本山大石寺をはじ
め、全国の各末寺において興師会が奉修された。

迹総本山では六日に御逮夜法要、七日に御正当会が、御法主日如上人猊下大導
師のもと厳粛に奉修された。

 これには、大石寺主任理事の佐藤日学御尊能化をはじめ、塔中・山内の御僧
侶方、所化小僧さん方をはじめ、総本山総代の渡辺定元氏・井出光彦氏・吉野
達也氏、寺族、信徒が多数参列した。

 六日午後四時、客殿の出仕太鼓が鳴り響く中、御法主上人猊下が御出仕あそ
ばされ、献膳の儀・読経・唱題と進められた。

 読経の中、御法主上人猊下の御焼香に続いて参列者全員が焼香を行った。

 その後、御法主上人猊下による懇ろな御回向が行われ、御逮夜法要はとどこ
おりなく終了した。翌七日は、同じく客殿において午前七時より、御法主上人
猊下大導師のもと、御正当会が奉修された。

 興師会では、日興上人が粗衣粗食であらせられ、お弟子方が摘まれた若芹を
愛好されたと伝えられることから、その御威徳を偲びつつ、若芹を御宝前にお
供え申し上げる。

 この法要に先立って、六日午前九時から、御助番の御尊師等によって芹摘み
が行われた。

 

もうバレバレだに~

 投稿者:さーてと3  投稿日:2017年 2月 8日(水)13時27分10秒
返信・引用
  はい。違って無いだに。

はい。通りすがりの法華講員殿(法華講員殿)=さーてと2殿だに。
はよ論評するだに。


さーてと2殿の投稿文だに。

http://9308.teacup.com/shukubou/bbs/2816

http://9308.teacup.com/shukubou/bbs/2814

http://9308.teacup.com/shukubou/bbs/2792

http://9308.teacup.com/shukubou/bbs/2790

http://9308.teacup.com/shukubou/bbs/2788

http://9308.teacup.com/shukubou/bbs/2825


ほい。通りすがりの法華講員の投稿文だに。

http://9308.teacup.com/shukubou/bbs/8671

http://9308.teacup.com/shukubou/bbs/9112

http://9308.teacup.com/shukubou/bbs/9103


・ 「聡明な・・・くんなら」とか馬鹿にした態度
・「はい○○」とかの上目線な態度
・「~とは言えるわけないよね?」・・とイヤミを交えた同意を求める態度
そんな点が、あの人たち(・・・・・)と似ていたなぁ・・・とつぶやいただけなのに
この人 なにヒステリックに 変な反応をしているんだろう(笑)


→別に怒っていないだに。 ほんと、さーてと2殿に復活して欲しいだけだに。

はよ通りすがりの法華講員殿(法華講員殿)=さーてと2殿は


「私は一度たりとも、
はい、 ほい、 出来るよね、ですよね、ほんと、 しなさんな、はよ、。。。 → しゃい、 わかりましたか、などの表現は、僕は一度たりとも使った事ないですよ」

と宣言すればいいだに。 出来ますよね。。。


わかりましたか。
 

もうバレバレだに~

 投稿者:さーてと3  投稿日:2017年 2月 2日(木)13時55分23秒
返信・引用 編集済
  ほんと通りすがりの法華講員くんは、さーてと2氏のキャラに、はよ戻って欲しいだに。
はい。通りすがりの法華講員くんは、さーてと2氏のキャラに、はよ戻って欲しいだに。
わかりましたか。。。
 

おはようございます、皆様方

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月30日(月)06時07分31秒
返信・引用
   ジムのホームページが急進化中!!

 https://www.t-rescue-gym.com/

 明日もスタッフがやって来て一緒に進化させます。
 素晴らしい人に恵まれて来た。
 嬉しいです。

 功徳~~!!
 

育成さん、おはようございます。

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月29日(日)05時20分16秒
返信・引用
   大きなお世話!!!  

創価学会 新仏誕生?

 投稿者:育成  投稿日:2017年 1月28日(土)17時36分30秒
返信・引用
   昨年十一月、創価学会はまたも会則を変更した。聖教新聞(平成二十八年十一
月五日付)によると、「日蓮大聖人直結・仏意仏勅の教団である学会自体が仏
の存在そのものであり、未来の経典には『創価学会仏』の名が記される」(趣
意)

 との長い間埋もれていた裏付けのない池田大作の思い出話を唯一の根拠に、
学会を「創価学会仏」と会則に明記したのだ。

 まさに悩乱の極致である。学会よ、大聖人直結・仏意仏勅を謳うのなら、「
学会仏」の根拠を御書や経典の予証で明示してみよ。

 そもそも「未来の経典」とは誰が説くのか? 末法万年の御本仏たる大聖人
以外の仏を想定しているということか?

 こんな矛盾だらけの珍説に翻弄される学会員こそ哀れである。

 出所不明の
 「学会仏」

 「学会仏」なる用語が登場したのは、管見の限り、昭和三十七年十月十八日
付の聖教新聞に掲載された座談会の記事が初出だろう。

 その中で、当時の教学部長・小平芳平氏の発言を皮切りに、突如として池田
大作は、戸田城聖二代会長の指導に「学会仏」という言葉があったと言い始め
た。

 しかし、これは極めて眉唾物だ。創価学会の元教学部長であり、大作の側近
だった原島嵩氏は、「私は小平氏に聞きました。『戸田先生は、本当に創価学
会仏といったのをあなたは直接聞いたのですか?』

 これに対し、小平氏は記憶が定かでないとして『いや、よくわからない。池
田先生から聞いたのかもしれない』と正直に答えてくださいました。

 私は、これはどうも先生のつくりごとか、あるいは戸田先生が事実言われた
としても、決して日蓮大聖人以外に創価学会仏なるものを想定されたこととは
どうしても考えられません。(中略)とにかく、先生はつくりごと、すりかえ、
自分の言ったことを他の人の言にしてしまうこと、それも既成事実化してしま
うことの名人です」
              (池田大作先生への手紙一〇六頁)

と証言している。

 「学会仏」は大謗法

 大聖人は、煩悩充満の凡夫について直ちに仏と詐る禅宗の邪義を、「謂己均
仏(己は仏に均しと謂う)の大慢」(御書三九七ー頁)と指弾されている。

 また、一仏の世界に二仏を立てる真言の邪説を、「一代五時を離れて外に仏
法有りと云ふべからず。若し有らば二仏並出の失あらん」(同四五〇頁)と破折
されている。

 これと同じく「学会仏」なる珍説は、大聖人が天魔の所為、亡国の悪法と喝
破される、禅宗や真言宗に並ぶ、否、それ以上の大謗法である。

 "創価愕怪物"を破折しよう

 およそ仏教徒にとって、仏法僧の三宝は信仰の根幹である。しかるに、
○御本仏のほかに「学会仏」を立てる仏宝破壊。
○本門戒壇の大御本尊に対する信仰を捨棄した法宝破壊。
○御歴代上人に誹謗中傷の限りを尽くす僧宝破壊。

 この三宝破壊の現証を見れば、創価学会は仏教徒ではなく、外道・池田教に
成り下がったことは一目瞭然である。そんな大謗法集団のどこに"仏"の意義な
どあろうか。

 まさに愕くべき仏法破壊の怪物、「創価学会仏」ならぬ"創価愕怪物"だ。

 当時の御当職であられた前御法主日顕上人猊下によって、完膚なきまでに破
折された学会資料(創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す 所収)によれば、かつ
ての学会は、「(日顕上人猊下に対し)『本地は何だ! 垂迹は何だ! 顕本は何
だ!』と攻めましょう」(該書 八二頁)

 などと述べて会員を扇動していた。ならば敢えて汝らの言葉を借りて破折し
よう。「学会仏」などという道理・文証・現証のない邪義に対して「『学会仏』
の本地は何だ! 垂迹は何だ! 顕本は何だ!」と鉄槌を下すものである。


 

お知らせ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月21日(土)13時45分10秒
返信・引用
  「宗史では血脈は切れていた」と日顕
暁鐘の編集室が作成したパンフは間違い
日蓮正宗は謗法、信心すれば悪因を積む

暁鐘の編集室が「全ての苦悩を乗り越える力ある宗教とは」「お守りお札の
恐ろしさをご存知ですか?」等のパンフを作って日蓮正宗の信仰だけに功徳が
あるかのようなデマを謳っている。

この暁鐘は妙観講の機関誌で、その編集室が作ったパンフは苦心の跡が見ら
れるものの、結論から言うと、第六十七世を詐称したニセ法主・日顕が日蓮正
宗を日蓮大聖人の仏法と似て非なる邪宗教に変質させたため功徳がなくなった
のである。

パンフの内容のうち、間違っているのは〝日蓮大聖人の教えが七百年以上を
経た今日まで代々受け継がれ、今日、第六十八世日如上人猊下に至るまで正当
に継承してきた〟の箇所だ。

昭和五十四年七月、第六十六世日達法主が相承をしないまま入院先のフジヤ
マ病院で急死。その直後、受けていない相承を「受けた」と自己申告して〝盗
座〟した日顕は悩乱して「日顕本仏論」を宗内に蔓延させた。

日顕は娘婿の早瀬義純や法華講の内田和子らに「現代における大聖人様」と
言わせ、海外部書記だった福田毅道には「日顕本仏・日蓮迹仏」の大邪義を講
義させた。

また、能化文書には「本仏大聖人、戒壇の大御本尊、歴代の御法主上人が、
その内証において一体不二の尊体」とまで記述させていた。

この能化文書に名を連ねた七人の能化は死に絶え、早瀬義純も五十代の若さ
で急死したのである。

また、高野法雄は法主が大聖人の法門の全てを所持し、御書は法門の部分に
すぎないという「御書部分論」の大邪説を唱えた。

こんな例証をあげるときりがないが、極めつけは日顕が「相承を受けた以上
は生身の釈迦日蓮」(平成九年八月二十八日、教師講習会)と強弁したことで
ある。

これら日蓮正宗に蔓延する「法主本仏論」「法主絶対論」は三宝破壊の大邪
義である。

日顕の後の日如も相承なきニセ法主で、日蓮正宗大石寺は謗法の山になった。

大聖人は「地頭不法ならん時は我が魂は此の山に住すまじ」(富士宗学要集)
と御遺言されたが、地頭どころか法主が悩乱している今、大石寺は大聖人とは
無縁の謗法の山なのである。

宗門は、学会と決別した直後、当時の教学部長・大村寿顕(後の日統、故人)
らの時局文書作成班が「時局文書」を乱発していたが、その中で「血脈法水が
断絶したならば日蓮正宗が滅びる」と述べていた。この「時局文書」が皮肉に
も的中、血脈が断絶した日蓮正宗は衰退の一途を辿っている。

その「時局文書」には「唯授一人の血脈を否定するのは大罪」等と書いてい
たが、日顕が本行寺にいた昭和三十三年、〝宗門の歴史の中には血脈が切れて
いることもあるんだ〟と語ったことがある。血脈相伝は幻想にすぎないのだ。

そのうえ「日興遺誡置文」に悉く違背し、今日、大聖人の仏法とは無縁とな
っている日蓮正宗の信仰をすれば悪因を積むことになる。
 

お知らせ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月19日(木)09時25分1秒
返信・引用
  日如は現代の「謗法の両火房」
大石寺の敷地で約百七十五平米を焼失
強風の中、焚き火が飛び火して火災に

早瀬日如が平成十二年十二月に〝盗座〟して以来、大石寺及びその周辺と末
寺などで火災が相次いでいる。今月十四日午後二時半ころ、富士宮市馬見塚の
雑木林で火災が発生。消防車六台が急行して消火活動に当たったが、約百七十
五平方メートルを焼き尽くして、地域一帯は騒然となり、警察も出動した。

この雑木林は、かつて学会が寄進した対山坊の敷地内で、現在は一・二階に
宗門関係者が住んでいる。

この火災は静岡新聞でも報道された。富士宮署によると、伐採した小枝など
を燃やしていた時に飛び火したということだが、この日は終日、激しい北風が
吹き続けており、地元の人達は「こんな強風の時に焚き火をするとは、どうか
している。勝手に焚き火をしてはいけないと禁じられているのに…」と語って
いた。

この日は、たまたま火を扱う年始行事「どんと焼き」の各所を消防車が巡回
していたため、幸いなことに早く駆けつけることができたようだが、消防車の
来るのが、もう少し遅れていたら敷地内にある大石寺の建物も延焼して大惨事
になっていた。

ところで、あの日顕は行く先々で何度も集中豪雨に見舞われて「雨坊主」と
呼ばれていたが、反対に日如は「火災坊主」と言えよう。

日如が〝盗座〟した後の主な火災を列記する。

平成十八年八月十二日午後四時前、物凄い雷鳴が轟いた瞬間、奉安堂の東側
に立つ杉の大木に落雷。杉の大木は中央付近から火を吹き、周辺には黒煙が立
ち込めた。これを「慧妙」は
「功徳」だと詭弁を弄していたが、その後も宗門には〝功徳の火災〟が多発し
た。

平成二十一年六月に法道院でボヤ騒ぎ、同年八月には大石寺・駐車場で乗用
車十台が焼ける事件があった。

同年十月十一日(日本時間十二日)にアメリカ・ワシントンDCの妙宣寺でお
会式の最中に火災があり、大騒ぎになった。

更に、同年十一月十五日午後には大石寺の境内にある休業中の売店で、木造
平屋建ての建物八店舗、約二百五十平方メートルが全焼した。

続いて同二十二年一月十七日午後七時頃、新宿区・大願寺(板東慈潮)から
黒煙が立ち上り、辺り一面には物凄い異臭が漂った。

この直後の二十七日には大石寺近くの蓮成寺でもボヤ騒ぎが起こった。

同二十四十二月十六日には延寿寺(高知県南国市内、当時の住職は川口盟道)
から出火、同寺の木造平屋の本堂と庫裏(住居部分)を合わせて約三百平方メー
トルを全焼した。

日蓮大聖人は「両火房と申す謗法の聖人……」と良観の極楽寺が火事で焼失
し、良観が庇護を受けていた鎌倉幕府の御所でも火災が起こったので「りょう
かん」をもじって「両火房」と揶揄された。

「火災坊主」の日如は、現代の「両火房」ともいうべき謗法坊主なのである。

 

Re: 無知を自覚することが真の認識に至る

 投稿者:通りがかりの  投稿日:2017年 1月15日(日)19時25分5秒
返信・引用
  >
> 身延に楠が自生していなければならない理由を述べなさい。
>
> 阿仏房は佐渡から身延まで来られるだけの交通網がある中、身延に楠木を持ち運ぶことなど大したことではないよ。

〇何百キロもある木材を運ぶのと人が1人登山するのを同等に考えているが貴方頭大丈夫?


>
> さらに、大聖人様の信徒は、南条時光 ・富木常忍 ・四条金吾 ・池上兄弟など地頭や高貴な家柄もいる。
>
> 大聖人様が身延で楠を伐採しなければいけない理由を述べなさい。

〇いつ何処から誰がどうやって運んだのか述べなさい。推測だけで造ったと言っているに過ぎないから色々と言われているのですよ。


>
> また、当時、身延にお寺や御堂は無かったのかい?お寺を建立するのにどれほどの木材が必要か理解できているか?


〇知らないのかい?弘安2年当時の様子を宗祖日蓮が述べている御書があるから読みなさい。


>
> お寺を建立する木材の寄進があるのに、戒壇様を顕す楠は入手できないのかい?

〇それも推測と希望的観測にしか過ぎない。

>
> 道理で考えなさい。
>
> 頭大丈夫か?

〇頭大丈夫?



 

お知らせ

 投稿者:育成  投稿日:2017年 1月13日(金)09時00分36秒
返信・引用
  衰退が目立つ役僧・能化の寺
日蓮正宗の新年勤行会は今年も大幅減少
日如の八十万構築の説法は“空念仏”だ

日蓮正宗の本山・大石寺や各末寺の新年勤行会の参加者が大幅に減少したこ
とが法華講連合会の有力筋、及び宗門の複数の関係者の情報から明らかになっ
た。

宗門が「邪宗だ、謗法だ」と誹謗している明治神宮、浅草寺、川崎大師、成
田山新勝寺などが三百万人前後の初詣の人で賑わっていたのに比べ、日蓮正宗
は全国の総計でも昨年より約五千人も減って六万五千人弱にすぎなかったとい
う。

なかでも布教部長・阿部信彰の常在寺(東京都豊島区)、庶務部長・秋元日高
の宣徳寺(東京都世田谷区)、財務部長・長倉日延の日正寺(札幌市)、教学部長
・水島公正の能安寺(所沢市)など宗務院各部長の寺の減少が目立つとのことだ。

加えて、重役・藤本日潤の常泉寺(東京都墨田区)、宗会議長・土居崎日裕の
妙光寺(東京都品川区)、関西大布教区宗務大支院長・高野日安の平安寺(京都
市)、東北大布教区宗務大支院長・戸高提剣の妙華寺(秋田市)、中部大布教区
宗務大支院長・日比野慈祐の玉泉寺(名古屋市)、中国大布教区宗務大支院長・
原山元征の興福寺(広島市)など能化や役僧の寺が軒並みに減少したということ
だ。

この実態から見ても役僧や能化の寺でも折伏によって法華講員が増えている
というのは真っ赤なウソで、反対に減っていることを物語っている。

これだけではない。大石寺の初登山参加者も減少し、御開扉は毎回、空席が
目立っていたと、宗門関係者が嘆いていた。これでは宗務院は末寺に対しても
厳しく糾弾できない。平坊主達は安心してよろしい。

一昨年三月に「法華講員五十%増を達成した」と発表して、昨年は平成三十
三年(二〇二一年)に向けて「法華講員八十万体勢の構築」と打ち出したが、無
残な結果に終っているのが明白だ。

能天気な日如は「新年之辞」の中で「昨年、宗門は僧俗一致・異体同心の団
結と弛まぬ努力によって、全国各講中の折伏達成数を総計すると、見事目標を
達成して」(「大日蓮」一月号)と述べている。

法華講の折伏は「無慈悲の極み」

だが、新年勤行会の参加者の減少という現実に照らして日如の「新年之辞」
は虚勢にすぎず、折伏の目標は未達成で、日如が口癖のように言う「八十万体
勢構築」の説法は〝空念仏〟ということが分かる。

また、日如は「折伏と育成は一体であります」と述べて「折伏した人々を育
成していかなければ……単に数字だけのものになってしまいます」「育成を欠
くことは無慈悲の極み」と力説している。

仮に折伏できたとしても、新年勤行会にも参加しない現状では育成を欠いて
いる証拠であり、日如は現在の法華講による折伏は「無慈悲の極み」と断じて
いるのである。

この日如は自分自身が実践した体験がないので折伏が難事中の難事とは知ら
ず、育成が真心と忍耐の労作業だとは思いもよらないから口先だけで命令して
いるのだが、平成三十三年になっても「法華講員八十万体勢」どころか、その
一割程度で低迷しているに違いない。

 

無知を自覚することが真の認識に至る

 投稿者:司馬 懿  投稿日:2017年 1月12日(木)10時40分29秒
返信・引用
  通りすがりの法華講員

身延に楠が自生していなければならない理由を述べなさい。

阿仏房は佐渡から身延まで来られるだけの交通網がある中、身延に楠木を持ち運ぶことなど大したことではないよ。

さらに、大聖人様の信徒は、南条時光 ・富木常忍 ・四条金吾 ・池上兄弟など地頭や高貴な家柄もいる。

大聖人様が身延で楠を伐採しなければいけない理由を述べなさい。

また、当時、身延にお寺や御堂は無かったのかい?お寺を建立するのにどれほどの木材が必要か理解できているか?

お寺を建立する木材の寄進があるのに、戒壇様を顕す楠は入手できないのかい?

道理で考えなさい。

頭大丈夫か?


 

お知らせ

 投稿者:育成  投稿日:2017年 1月 5日(木)14時47分18秒
返信・引用
  レベルの低い富士学林大学科
法教院の課外授業「創価学会破折」を一蹴
五十二年路線、「謗法はなかった」と日顕

東京・渋谷区の日蓮正宗の富士学林大学科(法教院)では先月、二回にわたっ
て課外授業「創価学会破折」(写真)を行ない、学会員を折伏する決意を新たに
したとのことだが、笑止千万 !

担当講師は西岡雄信(神奈川県藤沢市・寿照寺の坊主)で、学会の設立から現
在までの経緯、宗門との決別以降の動向などについて語ったようだ。その中で
西岡が強調したのは、学会員は法主・坊主を師匠としないで会内で師弟関係を
作ったとか〝ニセ本尊〟を作製した等と低レベルの話だ。

法主や坊主を師匠にせよ、といっても入会した学会員に対して勤行・唱題に
しても、御書の拝読や折伏にしても、全て懇切丁寧に教えて育成したのは学会
の幹部である。そして生活面でも相談にのり、信心根本に指導してきた。

こうした信心の基本から一生成仏、広宣流布の方途を学会員に教え、真剣に導
いた師匠は牧口・戸田・池田先生である。

寺に行っても供養を取るだけで親身になって学会員の面倒を見て、育てた坊
主はいないのが実情だ。

供養を欲しがるだけで勤行・唱題を嫌ってサボり、折伏もできない日顕や日
如らの極悪僧を師と仰がないのは当然だ。

第六十六世・日達法主が、一寺の住職といっても社会の生活面においては疎
いので口先だけで指導しようという根性は今後やめてもらいたい、学会が十分
に指導しておるのを横取りして、つまらない人情にかられて自分の子分にしよ
うという根性がもしあるならば、今日以降やめていただきたいと等と、指導は
学会幹部にお願いする旨、指南した通りである。

また、西岡は昭和五十二年路線にも触れたが、かつて日顕が「(学会に)根本
的な謗法はありえないのであります」と述べたように批判のための批判だった
のだ。

加えて、板本尊の謹刻についても総監だった藤本日潤は、法廷で「謗法では
ありません」と証言したではないか。謗法ではなかったことを平成三年以降、
急変して「謗法だ」と言い始めて責めるとは藤本の証言は〝偽証〟とでもいう
つもりなのか?

更に、西岡は日寛上人御書写の御本尊について〝ニセ本尊〟と誹謗していた
が、これは日寛上人に対する侮辱、冒涜に通ずる。

これについては、これまで再三、反論した通り、相承を受けていないニセ法主
の允可などは不要であり、ニセ法主が模写した本尊こそ〝ニセ本尊〟なのであ
る。

何より「道理証文よりも現証にはすぎず」で日顕が模写した本尊を拝んでい
た頃よりも日寛上人御書写の御本尊の功徳は絶大だとの体験が相次いでいる。

西岡ごときの課外授業を受けたからといって学会員を折伏できると思ったら大
間違いだ。返り討ちにあうに違いない。

 

お知らせ

 投稿者:育成  投稿日:2016年12月29日(木)21時04分46秒
返信・引用
  唱題行を下記のように奉修いたします。

      記

一、期間  一月一日~一月三十一日

一、時間  午前八時~九時

一、場所  総本山客殿

 ただし、七、十三、十五日は、
 午前九時~十時に行います。

 

課外授業「創価学会破折」

 投稿者:育成  投稿日:2016年12月29日(木)20時51分12秒
返信・引用
  富士学林大学科


十一月七日、東京都渋谷区の富士学林大学科(法教院)において、大学科生を
対象とした本年度の課外授業「創価学会破折」が開催された。

本年度は西岡雄信富士学林助教授(神奈川県藤沢市・寿照寺住職)より、昼夜
二回、各八十分にわたって授業が行われた。

授業は初めに、創価学会の設立から今に至るまでの経緯の総括と、用意され
た資料を元に、破門以後の動向が詳しく説明された。

そのなかで、昭和五十二年路線から平成三年に創価学会が破門されるまでの
問題について、御自身の体験を交えて話されたことは、非常に貴重で有り難い
ものであった。

また、創価学会は御法主上人を師匠とせず、会員内で師弟関係を作り、さら
には『二セ本尊』までも作製し、明らかな邪教集団となってしまったのである
と述べた。

最後に、私達一人ひとりが御法主日如上人猊下の御指南をしっかりと拝し、
諦めないで創価学会を折伏することが大事であると話し、授業が括られた。

 大学科生は今回の授業により、創価学会の邪義破折への決意と情熱を、さら
に確固たるものとした様子であった。


 

御法主日如上人猊下通り初め

 投稿者:育成  投稿日:2016年12月27日(火)10時40分58秒
返信・引用
  早瀬日慈に煮湯呑ませた大草一男
「主管本仏論」だと難癖をつけて裏切る
早瀬日如が「俺の目の黒いうちに妙観講を潰す」

 日顕宗の総監・早瀬日如(法道院主管)が日顕の後釜として「ニセ法主」
になるとの宗内の噂に脅える法華講の大講頭がいる。それは妙観講の大
草一男である。大草が恐れる理由は何か?
それは大草が早瀬日如の父親、法道院主管であった早瀬日慈(故人)に煮
湯を呑ませて離籍し、大石寺理境坊(坊主・小川只道)に所属した経緯や、
日慈に終生、拭いきれない赤恥を掻かせ、総監辞任に追い込んだ顛末を
日如が熟知しているからだ。「俺の目の黒いうちに必ず妙観講を潰して
やる」「大草の野郎は絶対、許さん」と、日如が周囲に漏らしていたこ
とがある。
今号では大草が、どんな悪辣な手を使って法道院を裏切り、理境坊に移
籍したか、その経緯を紹介する。
大草が日慈を誹謗中傷した事実は数多いが、何より特筆すべきは「本従
の師」に関する難癖である。
野心家の大草は学会を脱会して法道院に潜入、仲間を増やし、講中を牛
耳る立場になりたいと考え、その機を窺っていた。折しも、法道院の機
関紙「法の道」の昭和五十二年八月一日号に「日蓮大聖人の仏法を教え、
導いてくれる『本従の師』御主管……」の文字があった。これを見た大
草が「攻撃材料を見つけた」と大喜び、言葉尻をとらえて「『主管本仏
論』の動かぬ証拠」と難癖をつけ、糾弾の狼煙を上げた。
そして当時、法華講連合会の青年部長であった細谷某、芹沢某らと共謀
して騒ぎを大きくしていった。
騒ぐだけ騒いだ大草は同年十二月二十七日に法道院宛てに「離籍届」を
郵送。同月三十日には当時の日達法主に諂(へつら)って「法道院と早瀬
日慈は大謗法です」「私は猊下様にご奉公致します」云々と涙ながらに
言上。名演技でまんまと日達法主を欺いた大草は頭を下げながら「ペロ
ッ」と舌を出していた。
こうして、大草一派は「理境坊東京支部」として出発した(妙観講となっ
たのは昭和五十五年八月)。
一方、法道院側は「法の道」昭和五十三年一月一日号に「お詫び」を掲
載させられ、しかも、日慈は終生、忘れられない屈辱的な出来事で追い
討ちを掛けられた。
大草が同年一月二十五日に「法道院信徒二○九名離籍の真相」という小
冊子を発行。四十八頁にもわたり、法道院の血脈観、師弟論は血迷って
いるだの、単なる「お詫び」とか「校正ミス」ではすまないだのと書き、
「ふざけるのもいい加減にしてもらいたい」等々と、法道院・日慈に対
して罵詈雑言を浴びせていた。
同年春、大石寺に全国の 末寺住職が集まった際、大草が作った、この
「離籍の真相」を日達法主の命令で、一人一人に手渡しで配布させられ
たのが日慈本人であった。自分の悪口を書いた小冊子を配って歩く――
これ程の屈辱があろうか。配布する日慈の手は小刻みに震え、目は充血
していた。あの韓信の「股くぐり」にも似た恥辱であった。その後、日
慈は総監も辞任した。
妙観講幹部の法道院・日慈攻撃は続いた。大草の女房の実姉・佐藤せい
子(今は副講頭)らが「法道院という所は、校正ミスがお得意な所ですね
(大爆笑)」と機関誌で嘲笑していた程である。
日如により大草の大講頭解任、妙観講解散は確実だ。
 

鬼門修復工事が完了

 投稿者:育成  投稿日:2016年12月24日(土)22時49分5秒
返信・引用
  御法主日如上人猊下通り初め  平成28年12月20日


 

御大会

 投稿者:こうのとり  投稿日:2016年12月18日(日)18時05分5秒
返信・引用
  御大会は、日蓮大聖人が今から七百三十四年前の弘安五(一二八二)年十月十三
日に入滅あそばされ、滅不滅・三世常住の妙相を示されたことをお祝いする法
要である。この御大会は春の御霊宝虫払大法会とともに二大法要の一つとなっ
ており、各末寺においても十月一日から十一月三十日までの間に御会式が奉修
されることになっている。


 

平成29年 「臭門衰退の年」

 投稿者:(勝手に)地涌の流類  投稿日:2016年12月14日(水)15時42分21秒
返信・引用
  年間実践テーマ

①勤行・唱題だけで折伏完敗

②御講参詣で人材爆睡

③講中みんなで支部遭難登山

 

布教講演会

 投稿者:こうのとり  投稿日:2016年12月13日(火)21時40分47秒
返信・引用
  二日午後七時より一泊登山者を対象に行われます。

初めに、総本山代表の御僧侶による新年挨拶、次いで二名の御僧侶による布教講演を拝聴します。

最後に、信徒代表による謝辞をもって終了します。


 

大石寺――新富士駅

 投稿者:こうのとり  投稿日:2016年12月13日(火)21時24分38秒
返信・引用
   登山バスの運行

新年初登山が行われる一月二日・三日は、大石寺と新富士駅(富士駅経由)間の臨時バスが富士急静岡バスにより運行されます、

 運賃は、新富士駅から九三〇円〔小人四七〇円)。富士駅から八二〇円(小人四一〇円)。共に片道運賃です。

 ※この二日間に大石寺と新富士駅・富士駅間で運行されるバスは、上記の臨時便のみです。

 通常便の運行はありません。


 

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