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日顯上人の御鴻恩に応えて  

 投稿者:光明  投稿日:2019年11月15日(金)21時01分39秒
返信・引用
   八百年に垂んとする日蓮正宗の歴史において、宗開両祖・日目上人以来、御
歴代の御法主上人が死身弘法の御精神で、今日まで正法を厳護し、伝持弘通し
て来られた。

 その御歴代の中でも、第九世日有上人と第二十六世日寛上人は、中興の祖と
仰がれる。
 その寛師会を終えた翌日、第六十七世日顯上人は、九十六歳を一期とし安祥
として御遷化せられた。

 時まさに秋の彼岸・時正初日の意義深き砌であり、彼岸中日を挟んで密葬儀
が奉修せられた。
 御在職二十七年間を通して正邪を峻別なされた上人は、また、時正の砌を殊
の外重んじておられた。

 第二十六世日寛上人は、唯授一人血脈に基づく寿量文底独一本門の大法を宣
揚され、その深遠なる法門を書き留め、教学大成に不朽の功績を残された。

それと共に、唱題行を奨励し、常唱堂をはじめ山内諸堂宇を整備し、また五重
塔建立の基を築かれた。

 まさに信行学の三道に徹せられた御生涯であった。日顯上人も、国内外に数
多くの寺院を建立開基あそはされると共に、富士学林大学科を開設された。

 さらに六百億遍の唱題行を垂範して六万塔を築かれ、奉安堂をはじめ諸堂宇
を建立し、大きく山内を荘厳なされた。また数多くの著述と、御在職二十七年
間にわたり数多の御指南・御講義をなされている。

 御隠尊になられてからも、重要な法門書などの執筆に取り組まれる中、九十
四歳の御年まで学林で教鞭を執られた。

 総本山での御報恩御講にも欠かさず御出ましあそばされ、大聖人と日目上人
の御講の折には総本山と東京の大学科を毎日往復なされていた。

 日有上人が、御講のたびに隠棲先の甲斐国下部から大石寺まで欠かさず参詣
されていたことを彷彿とさせる尊い御姿であった。

 これよりは、私たちは、日顯上人から賜った「一年に一人が一人以上の折伏
を」との御指南を心肝に染め、自行化他の信行に励み、上人の御鴻恩に報いて
まいりたい。



 
 
 

素敵な方との出会い

 投稿者:さやか666  投稿日:2019年11月 4日(月)10時23分5秒
返信・引用
  当方 20代の敬虔な拝火教徒の既婚女性です、家庭も円満で収入にも不足なく
幼い頃から「とても美しい」と他人に羨ましがられ生きてきました
足りないのは運動神経くらいです。

しかしここ数ヶ月、プライベートでも仕事にも何か物足りなさを感じています。確かな何かを掴みたくて掴みたくてとても苦しいのです

笑っちゃいますよね、全てに恵まれていて最高に幸せなのですから

(無限に広がり続ける宇宙の中で途方もない孤独に追いやられている人間という存在そのモノを哀れんでいる)とでもいいましょうか・・・・

さて、不思議なご縁でシュウイチさんという日蓮正宗信者さんと掲示板で情報交換していますhttp://www.jwstudy.com/bbs/viewtopic.php?id=533

様々な根拠を基にして理路整然と折伏されるシュウイチさんに好感は持っています

この世で何か確実なものがあるとするなら、それは火の暖かさと 死肉をついばむ鳥の神々しさ(歯肉ではありません)

そして「ほけほとけさまの教え」かなと心が傾いています

私が死んだとき葬式をゾロアスター教、日蓮正宗どちらにしたらよいのか迷うくらいです



ただ、一部の誹謗者によれば

やれ、美意識が狂っているだの(おそらく日蓮正宗さんの青年大会の動画を馬鹿にしているのです。ステージで宗教のおじさんが絶叫したと思ったら
宗教のシャワーソングが始まり、複数のおじさん達が腰でリズムを刻んでセンスを降り始めるとか・・・ そんな大会あるのかどうか疑わしいですね)

やれインチキお肉が臭そうだの(誹謗する動機が全くわからないのですが、歯科医でもない連中がいわゆる歯茎? にちれんのにくへん「おにく」のことをやり玉にあげています)

やれ、「葬式後に死体が輝くのはチャレンコフだろ」だの

そうした消極的な意見に影響されてイマイチ信仰心が湧いてきません
何か具体的なアドバイスが有れば頂きたいです

出来ればおにくの動画、サーモグラフィー画像など頂ければ幸いです




 

全国・海外からも続々と参列国・海外からも続々と参列

 投稿者:厳粛に諸法要を奉修  投稿日:2019年10月 1日(火)21時29分15秒
返信・引用
   御枕経日顯上人の御遺体は、二十日に総本山に御帰山され、蓮葉庵に御安置
された。そして午後十時四十分から、御法主日如上人猊下大導師のもと御枕経
が修された。

 その後も、八木総監をはじめ御僧侶方・遺族・親族により、夜を徹して読経
・唱題が続けられた。

 御納棺の儀

 二十一日に御納棺の儀が蓮葉庵で行われた。午後二時四十分から、御法主上
人猊下大導師のもと読経・唱題の後、御遺体を御棺にお納め申し上げて、御法
主上人猊下大導師のもと再び御経が修された。

 御遷座の儀

 続いて午後四時、御棺を客殿に御遷座するため行列が組まれ、蓮葉庵を静か
に御発ちになり、鬼門をくぐり客殿の前を進んだ後、大書院大玄関から入堂さ
れ、御棺は客殿外陣東側に設えられた祭壇に御安置された。

 そして四時半過ぎ、御法主上人猊下大導師のもと読経・唱題が行われた。こ
れには御僧侶・寺族の他、この日の登山者や御遷化の報を受けて駆けつけた信
徒も参列を許され、読経・唱題に列なり、焼香申し上げた。

 その後は御密葬まで、山内・末寺の御僧侶方により、読経・唱題が続けられ
た。またこれ以降、客殿開門中は信徒の入堂も許され、読経・唱題、御尊顔を
拝する機会をいただけた。


 

(無題)

 投稿者:広宣流布の大行進  投稿日:2019年 9月19日(木)04時28分26秒
返信・引用
  顕正新聞「学会員を救う特集号7」

【堕獄の道歩む八百万学会員を救わん】

・池田大作「本門戒壇の大御本尊を捨てしむ」戒壇の大御本尊より他に仏に成る道なし

・学会で全て失う、末期癌で「余命年内」絶望の中に広告文で入会、功徳に歓喜 先生の弟子として力の限り御奉公を

・「心こそ大切に候へ」に涙溢れ入会 遥拝勤行で心晴れ、次々と功徳頂く「極限の大謗法」を伝へ学会員を救わん

・顕正会離脱者、心から改悔「やはり宗門は間違っていた」悪臨終ばかり、御開扉はノルマ「付け願い」を奨励

・学会で癌悪化「余命宣告」に辛い日々 入会、恋慕渇仰の勤行で内臓癌が消滅!
 

日蓮正宗 大信寺住職

 投稿者:第二十七男子部長 澤田真一郎  投稿日:2019年 9月 9日(月)23時37分31秒
返信・引用
  「細井日達の御遺命違背」ついに認める

 先般、小山第一五一隊長と婦人部幹部二名で、高知県土佐市の宗門末寺大信
寺住職・上田雄福と法論してまいりました。

 始めに、こちらが「宗門に御遺命違背の事実があれば還俗できるか」と問う
と、上田は「あなたたちは日蓮正宗の信仰と何も関係がない、単なる新興宗教
団体。なんで、そんな約束をしなければいけないのか」と屍理屈を並べ立て、
逃げ続けておりました。

 そこで、こちらから昭和四二年の正本堂建立発願式に出席した宗門高僧らの
談言を挙げて「正本堂は御遺命の戒壇か」と詰めると、上田は誤魔化し続けた
ので、細井日達の「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も教化の儀式
も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」との言葉を示
し、詰めました。

 すると、上田は明らかにイラつきはじめ、私たちから顔をそらし、まともに
話を聞こうとしませんでした。

 小山隊長から「とぼけないで下さい」とたしなめられた上田は、なんとニメ
ートルも離れていない至近距離から小山隊長に向かって、思いっきりボールペ
ンを投げつけてきたのでした。

 当った箇所が幸いにも胸元だったので事なきを得ましたが、もし眼球に当っ
ていたら失明していた可能性もあり、論に詰まった挙げ句、このような愚挙に
出る宗門僧侶の非常識ぶりには言葉を失いました。

 話を戻し、細井日達の悪言を一つずつ詰めていくと、上田は「『勅宣・御教
書』はそんなに効力は無い」などと「勅宣・御教書」を完全否定してきたので、
その御聖意を示し、細井日達の御遺命違背を責め続けました。

 すると観念した上田は「そう言っているかもしれない」と認め、こちらが「
では、この時点で宗門の御遺命違背は決定だ」と再度詰めると、上田は「それ
が御遺命違背に当るかどうか判断できないが、そういう風に聞こえる」と言い、
こちらが「それは間違いないか」と念を押すと、上田は「間違いない。

 あなたが判断したように書いてあると思う」と、ハッキリと細井日達の御遺
命違背を認めたのでした。

 それでも上田は「昭和四七年の『訓諭』が、正本堂を御遺命の戒壇ではない
と打ち消している」と食い下がってきたので「阿部日顕は『戒壇の建物は広布
完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今
から見れば言い過ぎやはみ出しがある』と告白している。

 打ち消しでも何でもない」と詰めました。すると上田は「どう答えればいい
の? だってあなたが求めるような答えを出したら、私、退転することになる
じゃない」と泣きつき、さらに「知らないよそんなこと。

 猊下しか出さないものなんだから。時代によって訓諭の意味が変わるのかっ
て。そりゃ変わるよ。日顕上人も調子に乗っちゃったんだよ」と開き直り「広
宣流布の暁に決めようよ。最後に正されればいい」と完全に逃げを打ってきま
した。

 さらに国立戒壇否定について、日淳上人の「国教樹立こそ大事」との文証を
示すと、上田は「わからない。じゃあ、日蓮正宗が『国立戒壇』という単語を
使うようになればオーケーってこと?」とか「早瀬日如上人が国立戒壇を言え
ば自分も言うかもしれない」と述べ、その何の信念もない姿には、ただ呆れる
ばかりでありました。

 最後に「戒壇の大御本尊ましますところは事の戒壇」のたばかりを詰めると、
上田は、浅井先生の「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」の中の一文を切り文
し、得意気に読み上げ「浅井会長も戒壇の大御本尊ましますところはいつでも
事の戒壇と認めている」とたばかってきたので、これは池田大作が言う「事の
戒壇」と細井日達の言う「事の戒壇」の定義が異なることを述べられている一
節に過ぎないことを示し

「細井日達より前に、戒壇の大御本尊ましますところはいつでも、どこでも、
事の戒壇としている文証があれば出せ」と迫りました。

 すると上田は、日相上人聞書や、日寛上人の法華取要抄文段にある「根源」
と「事の戒壇」がイコールであるなどと、「事の戒壇」の定義をたばかってき
たので、それを一々に破折していくと、「たまにはいいね。勉強になるね」な
どと強がりながら、逃げてしまったので、法論を終了しました。

 このように、細井・阿部の口真似をして悪言を並べ立てる残党らもまもなく
消滅し、宗門が遠からず、国立戒壇を堅持された日淳上人以前の清らかな宗門
に立ち還ることを強く確信するものであります。

 まずは、本年の最終法戦、第一五男子部は、早瀬管長に対する先生の直諌の
背景たる死身弘法を四国の地より展開し、断固、お応えしてまいる決意であり
ます。


 

あなたも必ず幸福になれます

 投稿者:一天四海本因妙広宣流布  投稿日:2019年 8月22日(木)06時04分4秒
返信・引用
  あなたは、健康ですか?
あなたは、日常生活に満足をされていますか?
あなたの心は喜びで満たされていますか?

もし、自分は幸福ではないと思われるのでしたら、諦める必要はどこにもありません!
次のステップを踏むだけで、どのような人も必ず幸福になることができます!

【幸福になるためのステップ】
①冨士大石寺顕正会に入信する
(幸福になるための必須条件で、お金は要りません。)
②朝晩のお祈りを毎日欠かさず実践する
(富士山の方角に向かい、法華経方便品・寿量品の読誦と南無妙法蓮華経の題目の唱題)
③仏法の素晴らしさを人に伝え、御本尊様に縁させる。

信じられないかも知れませんが、たったこれだけで絶大威徳・大慈大悲の日蓮大聖人の凄いお力を体験する事ができます。

顕正会に大功徳、大歓喜が満ちている理由は、日蓮大聖人様の御命令である「国立戒壇」建設を目指している唯一の団体だからです。

そのため、日蓮正宗法華講や創価学会から続々と入信した人々は、卓越した無二の師匠・浅井昭衛先生の御指導と鮮やかな功徳に涙を流し、口々に「今迄、宗門(日蓮正宗)や創価学会に騙されていた!本物に出会えて良かった!」と喜んでいます。

大切な御家族、御友人を救うため、また、自分自身の幸福のため、是非、冨士大石寺顕正会に入信なさってください!

難攻不落の無敵の教学力を身に付けておられる無二の師匠・浅井昭衛先生の御指導のもと私達顕正会員と共に、幸福になりましょう!

※浅井昭衛先生の諫暁書【日蓮大聖人に背く日本は必ず滅ぶ】を、是非、お読みください。
http://www.kenshokai.or.jp/kangyou/index.htm

南無妙法蓮華経 南無日蓮大聖人
 

法華講員80万人

 投稿者:全国48布教区で  投稿日:2019年 3月 1日(金)19時09分2秒
返信・引用
  体勢構築推進


一月二十六日から二月二十四日にかけ、全国四十八布教区にて順次行われてき
た、法華講員八十万人体勢構築推進僧俗指導会が終了した。

 指導会では、初めに僧俗一致・異体同心の唱題行を行った後、御法主日如上
人猊下の御指南拝読、「『勇躍前進の年』の信行」「八十万人体勢構築に向か
って」と題する御指導、当該布教区代表信徒による活動状況報告・体験発表、
僧俗の各代表による決意が発表された。

 今回の指導会における御指導では、法華講員八十万人体勢構築推進委員会委
員の御尊師方から、

①御命題達成は、僧俗一致・異体同心の団結をもって、組織戦の拡大を図ると
  ころに実現する、
②そのためには講中すべての人が、折伏と育成の大事を確認し、力を合わせて
  誓願達成に向け勇躍実践することが重要である、
③広宣流布の橋頭堡たる八十万に向かっていく中で必ず魔が競ってくるが、万
  難を排して前進していくこと(趣意)等の話があった。

 さらに、御授戒・勧誠前後に視聴するビデオとリーフレットを活用し、入信
当初より育成に注力すること、年間実践テーマである「勤行・唱題で折伏推進」
「講中一結で御講参詣」「登山参詣で育成推進」を着実に行うこと、等の御指
導があった。

 宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の大佳節まで二年を切った今、各支部において
は、全講員が漏れなく力を発揮できるよう、指導会に参加した者がいただいた
御指導・体験発表等の内容を講中全体に速やかに伝え、足並みを揃えて誓願目
標を早期に達成しよう。


 

御開扉、御法主上人猊下御目通り、布教講演会

 投稿者:「勇躍前進の年」始まる  投稿日:2019年 1月17日(木)20時29分7秒
返信・引用
  法華講新年初登山に一万七千四百三十余名

 新年を寿ぐ晴天のもと、法華講新年初登山が行われた。
 一月二日、午前十時から総本山大書院で行われた代表信徒御目通りでは、昨年末に取りまとめた宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年特別御供養(第二回目)の目録を御法主日如上人猊下に対し奉り、星野委員長から奉呈申し上げた後、御法主上人猊下より御言葉を賜った。

 午前十一時、午後一時に分かれて御開扉を受けた後、一泊者は夜には総二坊2Aで開催された布教講演会にも参加した。

 三日も大勢が登山し、一月唱題行、御開扉に参加した。

 新年初登山における御開扉は、元旦の特別布教区・静岡北布教区の各寺院所属信徒、二日・三日の一泊、二日の日帰り、三日の日帰りを合わせ三日間で計五回行われ、一万七千四百三十余名が「勇躍前進の年」の精進を誓った。

 

課外授業「創価学会破折」

 投稿者:富士学林大学科  投稿日:2018年12月 9日(日)13時11分45秒
返信・引用
   十月二十六日、東京都渋谷区の富士学林大学科(法教院)において、大学科生
を対象とした本年度の課外授業「創価学会破折」が開催された。

 本年度は山口実修富士学林教授(愛知県春日井市・安明寺住職)により、昼夜
二回、各八十分にわたって授業が行われた。

 授業は、創価学会の沿革や前御法主日顕上人猊下の御指南等が引かれ、破門
後の創価学会の歴史的・教義的矛盾点が詳細に説明された。

 そのなかで「創価学会は御本尊を軽視した挙げ句に『ニセ本尊』まで作製し、
最終的には戒壇の大御本尊への信仰を否定するという大謗法団体と化してしま
った。正しい信仰を失った創価学会を、私達一人ひとりが正法受持の立場から
しっかりと破折しなければ、学会の邪義は滅びない。

 私達は、御法主上人の御指南をしっかりと拝し、一人でも多くの創価学会員
を折伏するため、より多くの知識を蓄えることが大事である」旨が指導された。

 今回の授業を受けた大学科生は、創価学会の邪義破折への決意と情熱を、さ
らに確固たるものとした様子であった。


 

折伏

 投稿者:松添勝郎  投稿日:2018年11月15日(木)15時32分29秒
返信・引用
  折伏をしたいのですが折伏の勉強が出いていません1から折伏の勉強をしたいのでせすがどうひたらいいのでしょうか。  

特別御供養(第2回)

 投稿者:宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年  投稿日:2018年11月10日(土)19時06分14秒
返信・引用
  各支部で12月初旬に受付

平成三十三年・宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年
を慶祝申し上げるため、記念局総裁・御法主日
如上人猊下のもと平成二十七年に「宗祖日蓮大
聖人御聖誕八百年慶祝記念局」が設置され、法
華講員八十万人体勢構築の推進、総本山三門大
改修を中心とする諸事業が進められています。

 末法の御本仏宗祖日蓮大聖人が御聖誕あそば
されて八百年という大佳節に当たり、大聖人様
の大慈大悲に御報恩謝徳申し上げるため、これ
らの事業のすべてを、総力を結集して完遂し、
もって御宝前に供え奉るものです。

 これらの記念事業の実現のために、宗内僧俗
一同から「特別御供養」を募ることとなり、十
二月に第二回目の受付が行われます。

 御供養は、御本尊様に対する報恩感謝の志を
形に現わす尊い浄業です。

 御供養の絶大な功徳、利益を積めるよう、日頃
よりの丹精込めた真心からの御供養に挙って参加
してまいりましょう。

 

御法主日如上人猊下の大導師のもと

 投稿者:恒例の寛師会を奉修  投稿日:2018年 9月29日(土)21時17分38秒
返信・引用
  奉納角力、花火大会も盛大に

 九月十八日・十九日の両日、総本山大石寺において恒例の寛師会が、御法主
日如上人猊下大導師のもと厳粛に奉修された。

 この法要には、大石寺主任理事・佐藤日学御尊能化、庶務部長・秋元日高御
尊能化、宗務院の各部長・副部長をはじめ、塔中・山内の御尊師方、並びに所
化・小僧さんを含む多数の御僧侶方が御出席された。

 また、法華講大講頭の星野委員長・渡辺定元氏(総本山総代)・大草一男氏・
関野洋夫氏・篠田副委員長、総本山総代の井出光彦氏・吉野達也氏、法華講連
合会の各部長・地方部長、寺族をはじめ一泊者二千五百六十名、海外十二の国
と地域より百十名が参列した。

 

ecoさんの大御本尊への誹謗中傷

 投稿者:猫さんの友  投稿日:2018年 9月19日(水)12時27分53秒
返信・引用 編集済
  ecoさんは、恐れ多くも、大御本尊をレプリカだ(本物は盗まれた?)とイチャモン付けて
第三者による科学鑑定を主張しています。
こんな大謗法の主張するecoさんが、果たしてecoさん曰くの「法華講寄りの立場、法華講の味方」でしょうか?


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



311eco ◆Smw69BiSBo 2018/07/05(木) 22:13:14.60ID:TuoOuohW>>312

>>303以降
>>猫よりecoさんへの返答。
>>奉安堂の大御本尊が本物だと、法華講の皆さん信じています。
>>レプリカでなく、本物だからこそ功徳が出ているのじゃないですか?
>>これこそ科学鑑定云々以上の何よりの証拠。
>>ecoさんの言う、レプリカだなんて証拠はどこにも、何もありません。
>>故に「第三者による科学鑑定」など必要ありません。 一笑に付します。
>>何故?危機管理対策として科学鑑定をやらなかったのか?=その必要がなかったから。


あら 科学鑑定の結果に 自信がないんですか?

科学鑑定の結果で本物という内容証明が出来れば
今後、誰もが
「あの御本尊は偽物」などと「魔」の隙が入る余地等なくなるし
すり替え等のデマもなくなると思うんですけれどね
もっとも それ以前に盗まれてしまう ずさんな管理姿勢も問題がありますが


本当に奉安堂の御本尊が本物だと証明したいのなら
レプリカじゃない・・と証明したいのなら
それこそ、第三者による科学鑑定をおこなったらいかがでしょうか?
何故?危機管理対策として科学鑑定をやらなかったのでしょうか?
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/koumei/1488844631/217-317

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


その他、ecoさん以外にも「大御本尊が本物でも偽物でもどっちでも良い」と言う馬鹿者がいると聞いた事があります。
大御本尊は本物に決まっています! いずれその様な馬鹿者は、堕地獄になるでしょう。










 

御指南・善導を受けていれば……

 投稿者:仰山  投稿日:2018年 9月11日(火)09時30分52秒
返信・引用
  かつて、ウチの御住職さまからも、ミヤカワ某についてのオモシロい話をお聞きしたことがあります。若き日のミヤカワが、あろうことか法華講の女性に手を着けたとの話。既婚者であるにも関わらず、もてあそぶだけあそんで、女性と別れを切りだした。結婚できると思っていた女性は激怒、本山に怒鳴りこんできたらしい。女性の面前にミヤカワが呼びだされたものの、女性のことなどシラヌ・ゾンゼヌと否定。当の女性は怒りだし、ミヤカワに対して「お●ん●んに真珠を入れてるでしょ」と指摘。本山の御僧侶の手により、その場で身体検査。あんのじょう、女性が言うとおりの〝イデタチ〟で、ようやくミヤカワは観念したというのが、この話のオチ。昔は、御僧侶の間では、有名な話だったそう。ようするに、僧侶として以前に、人間としてマトモじゃなかったようですね。日蓮正宗にのこって、御隠尊様や猊下様の御指南を受けつづけていれば、善導されて今もマトモな人生をおくっていたでしょうに。嗚呼。  

御住職さまが一笑に付されてました

 投稿者:唯信伏  投稿日:2018年 9月 8日(土)20時51分44秒
返信・引用
  私の信徒仲間でも話題に上っていました。
かつて此の堕落僧は信心を狂わせて唯授一人正嫡血脈附法を御相承あそばされた御隠尊・日顕猊下様を口汚く罵る等散々口業の限りを尽くし、身口意の三罪を重ねに重ねた輩ですよね。
先日の広布唱題会で折伏の相談のついでに御住職さまに此の堕落僧の話をしたら、
「彼の阿闍梨等は自科を顧みざる者にして嫉妬するの間、自眼を回転して大山を眩ると観るか」(御書1196ページ)の一節を引かれて、
「若悩乱者頭破七分の通りだ」と堕落僧の現状について一笑に付されていました。
信賞必罰!(笑)
 

堕落僧が改心!?

 投稿者:法統連綿  投稿日:2018年 9月 7日(金)20時29分4秒
返信・引用
  堕落僧・宮川雄法についてネット上で話題になっているみたいですね。
自己啓発商法に首突っ込んだり、堕落先の謗法団体・創価学会と今では揉めているようです。過去の正宗への誹謗中傷による仏罰に怯えたのか、悪し様に、誹謗した御隠尊猊下のことを、手のひらを返して「日顕師」と呼んでいます。宮川自身のFacebookでは、〝御隠尊さまに対して、誹謗中傷したことを心より詫びたい〟などと、抜かしているようです。
 

戒壇さんは田中智学のお弟子さん!

 投稿者:浅井センセー バカ教学  投稿日:2018年 8月31日(金)12時19分54秒
返信・引用
  顕正会の輩にしては投稿者の「戒壇 」はバカすぎる、ただ貼り付けのオンパレード。

宿坊板に喧嘩を売る勇気ある顕正会員ならこの板で法論出来るはずだ。

やはり八尋の子分 弓谷の板潰しか!

 

戒壇さんは田中智学のお弟子さん!

 投稿者:浅井センセー バカ教学  投稿日:2018年 8月31日(金)00時37分26秒
返信・引用
  宿坊の掲示板に嫌がらせをしている顕正会のクズ人間、投稿者は「戒壇 」のハンドルネーム。

こやつは人師・論師の言が主で肝心な御書の御文はまるで駄目。

S 投稿者は「戒壇 」さんは 田中智学のお弟子さん。それとも国柱会さんかな?

K 富士大石寺顕正会だ!

S 邪宗か!

K 創価学会こそ御遺命破壊の大謗法だ。

S 顕正会の拠り所とする経釈は何だか答えてみなさい。

 

武田一男氏のYou Tubeについて

 投稿者:谷田和雄  投稿日:2018年 8月 1日(水)05時00分43秒
返信・引用
  はじめまして。私は今創価学会の会員ですが、いろいろ
不幸が続くので脱会を考え武田氏のYou Tubeを見ていたのですが、今日になって全部削除されていました。もう一度UPすることはできませんか。何故削除されたのでしょう。やはり創価学会にとって都合が悪いからでしょうか。
 

怨念の任用試験

 投稿者:大御本尊軽視の邪教 創価学会  投稿日:2018年 6月30日(土)23時41分11秒
返信・引用
   創価学会では先日、"教学部任用試験(仏法入門)"なるものを実施した。これ
に合格すると"助師"という称号が与えられるらしい。

 その出題内容には、他宗教への破折は皆無なのに、「日顕宗を破す」という
項目があり、その教材に、「日蓮大聖人の正統を伝えるはずでありながら、そ
の役割を放棄して堕落し『法華経の敵』となった日蓮正宗(日顕宗)の誤りを糾
します」(教学入門 11頁)とある。

 「破す」とは威勢がよいが、すべて宗門から破折され尽くした内容であり、
そもそも、世界中どこを探しても「日顕宗」なるものは存在しない。

 悩乱した学会執行部が邪念・怨念から、また、内部結束のため仮想敵として
作り上げた空想の産物だ。

 出世の本懐を改変

 他にも教材には、「熱原の法難において、三大秘法の南無妙法蓮華経を受持
して、不惜身命の実践で広宣流布する民衆が出現したことにより、世界の人々
を救うための日蓮大聖人の民衆仏法が現実のものとなりました。

 このことにより、生涯をかけた根本目的、『出世の本懐』を達成された」(
同一九頁)とある。この文章のどこが間違っているか?

 答えは、熱原法難は本懐成就の機縁ではあるが"本懐そのものではない"とい
うこと。

 学会が破門後の平成十二年に発行した『仏教哲学大辞典第三版』にも、「日
蓮大聖人の出世の本懐は一閻浮提総与の大御本尊の御建立であり、弘安二年(
一二七九年)十月十二日に成就された」(同書八七五頁)と正解が載っている。

 昔の創価学会では『聖人御難事』の、「余は二十七年なり」(御書一三九六
頁)を文証として、「本門戒壇の大御本尊御図顕こそが出世の本懐なり」と、
小樽問答などで舌鋒鋭く身延・日蓮宗を破折してきた。その先輩たちの信心を
汚し、現執行部は自分たちの都合で、御本仏の出世の本懐を改変してしまった。

  大御本尊は総体の本尊

 大御本尊を軽視する邪義は目に余る。

 「日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼茶羅と、それを書写した本
尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく『
本門の本尊』である」(聖教新聞 平成二十六年十一月八日付)と述べる、大御
本尊だけが特別ではないとの暴論も、そうだ。

 大聖人の御本尊には、個人に授与された一機一縁の御本尊や、特別な意義・
目的のもとに顕わされた御本尊と、その御顕発には凡下窺い知れない御仏意が
存する。

 その本懐究竟が大御本尊であることは、「日興が身に宛て給はる所の弘安二
年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」(御書 一八八
三頁)との御示しから疑う余地はない。

 大御本尊を唯授一人の御相伝によって伝持し、未来永久に大石寺に奉安申し
上げることが、宗開両祖の御遺誠である。

 また、総本山第二十六世日寛上人が、「本門戒壇の本尊は応に是れ総体の本
尊なるべし。是れ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり。自余の本尊は
応に是れ別体の本尊なるべし」(御書文段 二四三頁)と御教示のように、大御
本尊は、一切の御本尊の本体・根源であり、全世界の一切衆生が受持信行すべ
き唯一総要の尊体、故に総体の本尊と申し上げる。

 そういえば、大御本尊を受持しないと放言した最近の学会から、「一閻浮提
総与の大御本尊」との呼称をとんと聞かない。

 破門直後は池田大作も、「大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本
尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない。(中略)純真な『
信心』の一念で唱えた題目は、即座に大御本尊に通じていく」(聖教新聞 平
成五年九月十九日付)

と強がってみせたものだが、今は逃げ隠れするしかない……か。

 

「慈悲の欠片もない法華講の折伏」

 投稿者:樋田  投稿日:2018年 5月23日(水)13時33分10秒
返信・引用
  大型連休の最中に本山に招集して指導会
成果に焦る日如、阿部信彰らの悪足掻き

法華講員八十万人体勢構築という無謀な誓願の達成が絶望的な日蓮正宗が今
月四日、大石寺で「折伏推進僧俗指導会」を開いた。ここでは成果に焦る日如
や布教部長の阿部信彰、同副部長の新井契道をはじめ早瀬義栄ら折伏推進委員
の坊主が出席して「毎日が実践だ」「誓願を必ず達成せよ」等と締め上げてい
た。

折伏成果は全体的に低迷しているが、宗門関係者によると、四月末時点で達
成率が十%そこそこの末寺が約八十ケ寺もあったので、これらの末寺の坊主と
法華講幹部がゴールデンウィークの真っ只中、本山に召集されたということで
ある。

また、阿部信彰のいる常在寺(豊島区)の法華講員は、四月末の段階で同寺の
目標三百六十七に対して、やっと二十%になったので、それ以下の末寺の法華
講支部が指導会の対象になったのだろうと語っていた。

本来なら、大型連休の時は活動する絶好の機会である。その時に、わざわざ
本山に集めるのは活動の足を止めることになるのだが、そんな当たり前のこと
も日如や阿部信彰らは分からない無能坊主だ。集めて檄を飛ばせば折伏成果が
伸びると勘違いしているのだろう。

日蓮正宗は口では「僧侶主導の広宣流布」と言いながら坊主は発破をかける
だけで実践はせず、法華講員に折伏してもらう仕組みになっている。

本山での布教講演にしても、末寺での御講にしても、世間知らずの坊主が講
員に向かって説法するだけで、これでは布教は進まない。坊主が率先垂範して
折伏するのが本来の在り方だが、今の日蓮正宗の坊主共には、そんな力はない。
日如自身、折伏の経験が全くないのだ。

一方、講員はノルマに追われて勧誘しているため、その言動には相手を思い
やる慈悲の欠片もない。

先日、法華講の活動家の訪問を受けたという壮年は「突然、訪ねて来て、荒
々しい言葉遣いで一方的に私の信仰の悪口を言う。腹が立ったので追い返した」
と語っていた。

今年も地方部総会の参加者は減少!

このように坊主が講員に暴言を教唆するような指導会を開いても逆効果で、
活動家も減っている。事実、今年の法華講地方部総会の参加者も減少している。
毎年一回、開く総会の参加者数は法華講の勢力を示すうえで格好の行事である。

そのため各地方部は結集に力を注ぎ、連合会幹部らが手分けして担当してい
る。

だが、連合会の関係者によると、参加者数が昨年に比べて微増の地方部もあ
るが、ほとんどが横ばい状態で、減少している地方部も目立つという。

昨年よりも参加者数が減っているのは、現時点で分かっているだけでも秋田
・岩手・宮城・福島・栃木・神奈川・東京第二・静岡東・愛知東・京都・兵庫
・南近畿・北中国・広島・福岡東・福岡西の各地方部である。

なかでも愛知東地方部は、参加者が以前は千人を超えていたとのことだが、
今年は四百人少々にまで落ち込み、最悪の事態だ。

なお、法華講の夏期講習会の第一期が十九・二十日に始まったが、今年も日
如ら坊主の説法は不評だ。その様子は改めて紹介する。

 

正妙山 善浄院

 投稿者:創価学会破折  投稿日:2018年 5月15日(火)22時59分23秒
返信・引用
  慶讃文

 今正しく慧日の光風一天に満ち、陽光四海を覆う好季、吉辰を卜して中華民
国台北市北投区の北投布教所に、本門の大御本尊を安置し奉り、恭しく板御本
尊入仏の法要を修す。
 謹みて、
南無本地難思境智冥合久遠元初自受用報身人法一箇独一本門大御本尊、
南無本因妙教主一身即三身三身即一身三世常恒御利益主師親三徳大慈大悲宗祖
日蓮大聖人、
南無法水潟瓶唯我与我本門弘通大導師第二祖白蓮阿闍梨日興上人、
南無一閻浮提御座主第三祖新田卿阿闍梨日目上人等御歴代正師の御宝前に敬っ
て白す。

 夫れ北投布教所は、先に民国百四年三月、財団法人中華民国日蓮正宗基金会
を母体法人として、北投分事務所を兼ねた台北首都圏北部の法城として開設せ
り。爾来責任者信宣房、よく異体同心の団結を図って地域広布に邁進し、一層
の寺運興隆に努め、此の度板御本尊入仏を願い出、本日茲に院号を公称し入仏
法要を修するに至る。

 日如、此の法城を、正妙山 善浄院
と命名し、大衆を随従して今此の法筵を敷くは、本地甚深の妙法愈々閻浮に光
被し、此の道場に詣でん大衆をして皆悉く一仏乗の妙境に入り、即身成仏の大
果を得せしめんが為なり。

 法華経に曰く、
  願わくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜ
んと。仰ぎ願わくは、御本仏日蓮大聖人、大慈大悲の冥鑑を垂れ、善浄院の寺
檀和合寺運興隆して、広宣流布の大願を成就なさしめ給わんことを。

 民国百七年四月二十一日
   日蓮正宗総本山
            日如 花押
 第六十八世嗣法
                  敬白


 

臭務広報 No.1320

 投稿者:樋田  投稿日:2018年 4月10日(火)15時54分29秒
返信・引用
  大石寺派(すでに広宣流布からリタイアしたので最近は退席痔派とも呼びます)では、自分たちの唯一のアイデンティティとして戒壇の大御本尊を主張しますし、大聖人の御書のとおりに実践していない老衰した自己中心の脱会者が、自分は大御本尊のある方がいいから日犬は悪でも仕方ない、と半泣きで侘びていたりもします。
しかし、貫主であった日顕自身が、戒壇の大御本尊についての真実を示唆する講釈を垂れたことで、いよいよ真実の大聖人の教えが明らかにされる「時」が来たと確信しています。
戒壇の大御本尊という立派な彫刻本尊が、実は大聖人御在世の建立ではないという証拠をたくさん示して、真実の大聖人の仏法について思索する契機としてみましょう。
 なお、それぞれの主張に根拠となる画像ファイルがたくさんあるのですが、ここでは省略させていただきます。

◎日顕が河辺メモでばらした戒壇の大御本尊偽物説の間違い

宗門でも有名な河辺メモは、かつての学会と宗門との連絡会議の学会側の記録と比較するとほとんど表現が一致していること等の実績から、その正確さについては知る人ぞ知る、という記録文書です。
その河辺メモで暴露された昭和53年2月7日付けの阿部教学部長(当時)と帝国ホテルでの会話の内容は、

「S53・3・7、A面談(注:当時阿部教学部長)・帝国H
一、 戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(写真判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。」

というものです。この河辺慈篤(故人)のメモに記載されている内容で重要な点は、
「法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」
の個所です。
 阿部の見解は、戒壇の大御本尊とは弘安3年5月9日に顕わされて日禅に授与された本尊を「籠抜き」と称する手法(御本尊に和紙を当てて、題目を書き写し、次にその和紙を木の板に当てて板に刻むという本尊の作成方法)で彫刻したもので、日時師か日有師の頃の筆だというものです。
 最も確実な確認の方法は、毎年の虫払い法要の際に公開される日禅授与本尊について、実際にどのように籠抜きをした形跡が残っているかを確認すれば良いのでしょうが、宗旨が根本からひっくり返るので、絶対に宗門はそれを認めるはずはないし、聞いても頭から無視し否定するしか道がない。邪宗門の言い訳文書を見ると、

「日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆本尊について(むろん日禅授与本尊も同様)写真撮影や鑑定調査を許していない。」

と、とにかく頭から否定してかかるしか逃れる道が無いことを自覚しているようです。
 しかし、情報化社会の中で、すでに多様な情報が共有されているのですから、阿部の主張を基礎に、そうした公開された情報を参考にして、一つずつ事実確認をすることで、戒壇の大御本尊の真実に迫ることとしましょう。また、邪宗門に対しては、

① 日禅授与本尊に籠抜きをした形跡が残っているかを確認せよ
② 戒壇の大御本尊をわずか数mg削って、AMS法で炭素14を分析せよ

 それによって事実を示せないならば、以下の根拠に基づき、戒壇の大御本尊とは大聖人滅後に日禅授与本尊を模刻したものだと断定するぞ!と責め続けましょう!
 学会総体としても、現時点では従来の宗旨を否定していないようですが、それは大聖人の言葉である

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

に基づいているからで、上記①、②によって完璧に証拠を確認出来たら、いよいよ教義体系を根本から正すことになるのでしょう。


◎戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々

(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い(是1)

 堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の退席寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げかけておられるのです。

「御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」
「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」
「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」
「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」

等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念(日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持していたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。
 要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、というのが堀上人の結論なのです。


(2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しか記載されていない(是2)

 大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、(1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入りの連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、
「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、

「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213)

と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。
 この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、

「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」

と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で板本尊は存在しなかったという証拠の一つです。


(3)戒壇の大御本尊の主題と日禅授与本尊の主題は極めて高い一致(是3)

 大聖人の御真筆本尊は、約140体が現存しており、いくつかを除いて立正安国会がそれらを「御本尊集」として公開しています。これらの御本尊の主題(題目)はデータベースになり、最新のコンピュータ・マッチングという手法でその類似性を確認することが可能です。
 また、戒壇の大御本尊については今まで写真が公開されていたのは熊田葦城著「日蓮聖人」という文献のみで、非常に不鮮明なものであったため、写真鑑定が出来るような状況ではありませんでした。しかし、邪宗門が奉安堂と称する安普請の建屋に御本尊を移転した際に、ある法華講がごく近接した間近な距離で撮影したようで、静岡在住の金原氏が入手したその写真と、日禅授与本尊の写真とをデータとしてパソコンに取り込み、比較をしたのです。
 その結果は驚くべきもので、他の約140体も含めて、御本尊の主題のサイズと形状(とくにヒゲと呼ばれる文字の撥ね方)は、それぞれが大きく異なっているため、当然のことですが一致するようなものは存在しません。
 ところが、日禅授与本尊と戒壇の大御本尊のみについては、御本尊全体のサイズは全く異なるにも拘わらず、題目のサイズと形状の一致度が極めて高いことが判明したのです。この事実は、阿部が主張した「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、(中略)日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」との見解を見事に確認し、証明するものです。
 阿部の息子のシンショウなどは、「そんな昔に、題目を一定の比率で拡大する技術など無かった」と間の抜けた反論をしようとしていたのですが、拡大などではなく、全く同じサイズの主題なのです。そのことを指摘されると、「私は教学は苦手で」「私の信仰だ」と、教学が無いのでシンショウは、大御本尊のことを「鰯の頭」と同じレベルで信じ込んでいることを自ら暴露したのです。お粗末な邪宗門です。


(4)戒壇の大御本尊の座配と日禅授与本尊の座配は完全に一致(是4)

 大聖人の御本尊を比較すれば、十界の座配はほとんどが異なっています。
 例えば、初期の10体ほどの真筆御本尊には、釈迦・多宝の二仏しか書かれておらず、全部が仏界のみです。
 この事実ひとつを見ても、邪宗門が学会の日寛上人の形木本尊を誹謗するに際し、最初の頃には「十界が全部書かれていないからニセ本尊だ」などと真っ赤なウソをついたのが、明らかです。彼らは単に「学会員の信心を破壊するためにならばどんなウソでもついてやる」という天魔の立場であることが理解できます。学会員から破折され、赤恥を晒してすぐに引っ込めたようですが。
 戒壇の大御本尊と日禅授与本尊の座配を比較すると、阿部が指摘したとおり日禅授与本尊を模写したのであれば当然のことですが、十界のすべての表現と共に「仏滅度後二千二百二十余年」までが全く同じ内容なのです。
 そして、「腰書き」と称する御本尊の下部に書き加えられたと考えられる部分に「弘安二年十月十二日」が存在するのです。
 これは、完全な模刻本尊だということです。戒壇の大御本尊とは、日禅授与本尊を大聖人の滅後に模刻したものだという見事な証拠です。


(5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
 これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者の書き方です。
130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は非常に明確な変遷があります。

① 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」
② 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」
③ 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」

 戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。
 そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊には記載されているのです。
 ここでもまた日顕が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。


(6)日興上人が書写された多数の御本尊は日禅授与本尊以外の御本尊を書写している(是6)

 歴代法主は常住本尊を書写するに際して「書写之」と書きますが、この「之」とは「戒壇の大御本尊」という主張が、以前は退席寺派ではまことしやかに流されていました。
 しかし、日興上人が「書写之」として書き残されたたくさんの御本尊の中に、この戒壇の大御本尊と同じ座配のものがどれほどあるかをいくつも調べてみましたが、少なくとも私が調べた範囲では見当たらないのです。数百もの日興上人の真筆御本尊の中には、日禅授与本尊を書写したものは存在するのかもしれませんが、大聖人の御本尊の重要性を熟知し、五老僧の本尊不敬を厳しく批判されておられた厳格な日興上人が、もしも血脈相伝の根本中の根本と称する「一大秘法」の戒壇の大御本尊という教義の根本が現実に存在したのであれば、それを無視して、他の大聖人の御本尊を書写するとはどういうことでしょうか?
 要するにこのことも、日興上人の御存命の頃には、そのような戒壇の大御本尊と称する「一大秘法」は存在していなかったということの傍証なのです。


(7)歴史上初めて板本尊の記録が残るのは、大聖人滅後約280年も経った1561年の保田妙本寺日我の文書(是7)

 すでに指摘したとおり、大聖人の出世の本懐とされた戒壇の大御本尊の存在は、日興上人が身延から富士に移られた際の宝物の中にも、その後の日興上人御在世中の文献にも何一つその記録は残っていません。
 板本尊という教義上特別に重要なはずの存在が、歴史上最初の記録として文献に現れるのは、大石寺派ではなく、4世日道と決別した日郷が開いた寺である千葉県の保田妙本寺出身の、日我という学僧が書き残した「観心本尊抄抜書」なのです。

「書写の本尊に現文あり、造立の仏に現証あり。久遠寺の板本尊今大石寺に在り大聖御存日の時の造立なり、池上の削りかけの御影、御入滅あるべきその九十月に造らせられるなり、一体の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に立て置くべく候」(富要-171)

 しかもその時期は、大聖人滅後ほぼ280年もの時間が流れているのです。現代との時間の隔たりで言えば、江戸時代の中頃ぐらいです。
 大聖人の出世の本懐というものがもしも最初から存在していたら、300年近くも歴史の表面に記録が残らないはずがありません。大聖人滅後にそっと模刻して、しばらく保管していたのです。


(8)大石寺派の文献で最初に板本尊の記録が残るのは、1573年以降の日主の文書(是8)

 歴史上初めて板本尊に関する記載が大石寺派の文献に現れたのは、大聖人滅後300年ほども経った、1580年頃に書かれた14世日主の「日興跡條々事示書」が最初のことです。
 そして、それ以降は頻繁に記録が残されているのです。300年にわたって、その存在すら誰も記録に残さないような重大な「宗祖の出世の本懐」が存在するなどということなど考えられるでしょうか。


◎改竄がなされた「日興跡條々事」ではなく、その草本が公開された

 現存する「日興跡條々事」は明らかな改竄が見受けられますが、堀上人が富士宗学要集8巻17ページに記載しているように、
「正本案文共に総本山に現存す」
と記された「案文」が「日蓮と本尊伝承」(水声社 金原明彦)で公開されました。その内容は、
「日興カ当身弘安弐年所給大本尊」
と、日興上人に弘安2年に給わったところの大本尊、ということが記録されているのです。
 つまり、大聖人から日興上人に継承されたのは、「弘安2年の大御本尊」ではなく、大聖人から日興上人に「弘安2年に与えられた」「大本尊」ということなのである。これに該当するものとしては、例えば万年救護本尊は大聖人から日興上人に弘安2年に与えられ、その授与書きには御真筆本尊で唯一「大本尊」という表現が記されているのです。
 そのためか、次項に記載するとおり、唯授一人の血脈相承を受けた歴代の中に万年救護本尊を根本とする見解を持った法主も存在したのです。


(9)大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)

 堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、

「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是
万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」
(通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。)

と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、

「板本尊の事也、今当山に在る也」

と改竄している記録が残されているのです。
 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、

「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」
(通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。)

と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、
「宗門から学会を取ったら何も残らない」
「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」
と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。


 以上のことを総括すれば、阿部は河辺に対して「偽物である」と言ったようですが、これは間違いで、戒壇の大御本尊は事実として立派な模刻本尊なのです。ただ、弘安2年10月の建立などではなく、弘安3年5月の日禅授与本尊を模刻して、(日犬の分析が正しければ)大聖人滅後100年以上経ってから建立されたものなのです。
 あとは、日善授与本尊に模写の形跡があることを確認し、戒壇の大御本尊の炭素14(放射性同位体)を精密に分析して、科学的な証拠を確認すれば、大石寺派の宗旨は根本的に転覆し、いよいよ創価学会も天下晴れて大聖人の言葉(御書)を根本にして、第三の千年の全人類のための教義体系へと再構築をすることになるのです。

 以上の事実を知ってもなお「戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐だと信じる」と、証拠も示せずに幻想にしがみつく方は、「イワシの頭を信じているんだが何か文句あるか」と開き直る原始人と何ら変わりの無い狂信、邪教の信者と言うことが出来ます。
 大聖人が御書で示されている原理を確認してみましょう。

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

 つまり、証拠を示せない主張は邪教だと大聖人は断定されているのです。やはり大石寺派は邪教だったのです 大石寺派(すでに広宣流布からリタイアしたので最近は退席痔派とも呼びます)では、自分たちの唯一のアイデンティティとして戒壇の大御本尊を主張しますし、大聖人の御書のとおりに実践していない老衰した自己中心の脱会者が、自分は大御本尊のある方がいいから日犬は悪でも仕方ない、と半泣きで侘びていたりもします。
しかし、貫主であった日顕自身が、戒壇の大御本尊についての真実を示唆する講釈を垂れたことで、いよいよ真実の大聖人の教えが明らかにされる「時」が来たと確信しています。
戒壇の大御本尊という立派な彫刻本尊が、実は大聖人御在世の建立ではないという証拠をたくさん示して、真実の大聖人の仏法について思索する契機としてみましょう。
 なお、それぞれの主張に根拠となる画像ファイルがたくさんあるのですが、ここでは省略させていただきます。

◎日顕が河辺メモでばらした戒壇の大御本尊偽物説の間違い

宗門でも有名な河辺メモは、かつての学会と宗門との連絡会議の学会側の記録と比較するとほとんど表現が一致していること等の実績から、その正確さについては知る人ぞ知る、という記録文書です。
その河辺メモで暴露された昭和53年2月7日付けの阿部教学部長(当時)と帝国ホテルでの会話の内容は、

「S53・3・7、A面談(注:当時阿部教学部長)・帝国H
一、 戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(写真判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。」

というものです。この河辺慈篤(故人)のメモに記載されている内容で重要な点は、
「法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」
の個所です。
 阿部の見解は、戒壇の大御本尊とは弘安3年5月9日に顕わされて日禅に授与された本尊を「籠抜き」と称する手法(御本尊に和紙を当てて、題目を書き写し、次にその和紙を木の板に当てて板に刻むという本尊の作成方法)で彫刻したもので、日時師か日有師の頃の筆だというものです。
 最も確実な確認の方法は、毎年の虫払い法要の際に公開される日禅授与本尊について、実際にどのように籠抜きをした形跡が残っているかを確認すれば良いのでしょうが、宗旨が根本からひっくり返るので、絶対に宗門はそれを認めるはずはないし、聞いても頭から無視し否定するしか道がない。邪宗門の言い訳文書を見ると、

「日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆本尊について(むろん日禅授与本尊も同様)写真撮影や鑑定調査を許していない。」

と、とにかく頭から否定してかかるしか逃れる道が無いことを自覚しているようです。
 しかし、情報化社会の中で、すでに多様な情報が共有されているのですから、阿部の主張を基礎に、そうした公開された情報を参考にして、一つずつ事実確認をすることで、戒壇の大御本尊の真実に迫ることとしましょう。また、邪宗門に対しては、

① 日禅授与本尊に籠抜きをした形跡が残っているかを確認せよ
② 戒壇の大御本尊をわずか数mg削って、AMS法で炭素14を分析せよ

 それによって事実を示せないならば、以下の根拠に基づき、戒壇の大御本尊とは大聖人滅後に日禅授与本尊を模刻したものだと断定するぞ!と責め続けましょう!
 学会総体としても、現時点では従来の宗旨を否定していないようですが、それは大聖人の言葉である

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

に基づいているからで、上記①、②によって完璧に証拠を確認出来たら、いよいよ教義体系を根本から正すことになるのでしょう。


◎戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々

(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い(是1)

 堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の退席寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げかけておられるのです。

「御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」
「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」
「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」
「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」

等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念(日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持していたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。
 要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、というのが堀上人の結論なのです。


(2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しか記載されていない(是2)

 大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、(1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入りの連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、
「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、

「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213)

と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。
 この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、

「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」

と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で板本尊は存在しなかったという証拠の一つです。


(3)戒壇の大御本尊の主題と日禅授与本尊の主題は極めて高い一致(是3)

 大聖人の御真筆本尊は、約140体が現存しており、いくつかを除いて立正安国会がそれらを「御本尊集」として公開しています。これらの御本尊の主題(題目)はデータベースになり、最新のコンピュータ・マッチングという手法でその類似性を確認することが可能です。
 また、戒壇の大御本尊については今まで写真が公開されていたのは熊田葦城著「日蓮聖人」という文献のみで、非常に不鮮明なものであったため、写真鑑定が出来るような状況ではありませんでした。しかし、邪宗門が奉安堂と称する安普請の建屋に御本尊を移転した際に、ある法華講がごく近接した間近な距離で撮影したようで、静岡在住の金原氏が入手したその写真と、日禅授与本尊の写真とをデータとしてパソコンに取り込み、比較をしたのです。
 その結果は驚くべきもので、他の約140体も含めて、御本尊の主題のサイズと形状(とくにヒゲと呼ばれる文字の撥ね方)は、それぞれが大きく異なっているため、当然のことですが一致するようなものは存在しません。
 ところが、日禅授与本尊と戒壇の大御本尊のみについては、御本尊全体のサイズは全く異なるにも拘わらず、題目のサイズと形状の一致度が極めて高いことが判明したのです。この事実は、阿部が主張した「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、(中略)日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」との見解を見事に確認し、証明するものです。
 阿部の息子のシンショウなどは、「そんな昔に、題目を一定の比率で拡大する技術など無かった」と間の抜けた反論をしようとしていたのですが、拡大などではなく、全く同じサイズの主題なのです。そのことを指摘されると、「私は教学は苦手で」「私の信仰だ」と、教学が無いのでシンショウは、大御本尊のことを「鰯の頭」と同じレベルで信じ込んでいることを自ら暴露したのです。お粗末な邪宗門です。


(4)戒壇の大御本尊の座配と日禅授与本尊の座配は完全に一致(是4)

 大聖人の御本尊を比較すれば、十界の座配はほとんどが異なっています。
 例えば、初期の10体ほどの真筆御本尊には、釈迦・多宝の二仏しか書かれておらず、全部が仏界のみです。
 この事実ひとつを見ても、邪宗門が学会の日寛上人の形木本尊を誹謗するに際し、最初の頃には「十界が全部書かれていないからニセ本尊だ」などと真っ赤なウソをついたのが、明らかです。彼らは単に「学会員の信心を破壊するためにならばどんなウソでもついてやる」という天魔の立場であることが理解できます。学会員から破折され、赤恥を晒してすぐに引っ込めたようですが。
 戒壇の大御本尊と日禅授与本尊の座配を比較すると、阿部が指摘したとおり日禅授与本尊を模写したのであれば当然のことですが、十界のすべての表現と共に「仏滅度後二千二百二十余年」までが全く同じ内容なのです。
 そして、「腰書き」と称する御本尊の下部に書き加えられたと考えられる部分に「弘安二年十月十二日」が存在するのです。
 これは、完全な模刻本尊だということです。戒壇の大御本尊とは、日禅授与本尊を大聖人の滅後に模刻したものだという見事な証拠です。


(5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
 これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者の書き方です。
130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は非常に明確な変遷があります。

① 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」
② 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」
③ 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」

 戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。
 そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊には記載されているのです。
 ここでもまた日顕が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。


(6)日興上人が書写された多数の御本尊は日禅授与本尊以外の御本尊を書写している(是6)

 歴代法主は常住本尊を書写するに際して「書写之」と書きますが、この「之」とは「戒壇の大御本尊」という主張が、以前は退席寺派ではまことしやかに流されていました。
 しかし、日興上人が「書写之」として書き残されたたくさんの御本尊の中に、この戒壇の大御本尊と同じ座配のものがどれほどあるかをいくつも調べてみましたが、少なくとも私が調べた範囲では見当たらないのです。数百もの日興上人の真筆御本尊の中には、日禅授与本尊を書写したものは存在するのかもしれませんが、大聖人の御本尊の重要性を熟知し、五老僧の本尊不敬を厳しく批判されておられた厳格な日興上人が、もしも血脈相伝の根本中の根本と称する「一大秘法」の戒壇の大御本尊という教義の根本が現実に存在したのであれば、それを無視して、他の大聖人の御本尊を書写するとはどういうことでしょうか?
 要するにこのことも、日興上人の御存命の頃には、そのような戒壇の大御本尊と称する「一大秘法」は存在していなかったということの傍証なのです。


(7)歴史上初めて板本尊の記録が残るのは、大聖人滅後約280年も経った1561年の保田妙本寺日我の文書(是7)

 すでに指摘したとおり、大聖人の出世の本懐とされた戒壇の大御本尊の存在は、日興上人が身延から富士に移られた際の宝物の中にも、その後の日興上人御在世中の文献にも何一つその記録は残っていません。
 板本尊という教義上特別に重要なはずの存在が、歴史上最初の記録として文献に現れるのは、大石寺派ではなく、4世日道と決別した日郷が開いた寺である千葉県の保田妙本寺出身の、日我という学僧が書き残した「観心本尊抄抜書」なのです。

「書写の本尊に現文あり、造立の仏に現証あり。久遠寺の板本尊今大石寺に在り大聖御存日の時の造立なり、池上の削りかけの御影、御入滅あるべきその九十月に造らせられるなり、一体の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に立て置くべく候」(富要-171)

 しかもその時期は、大聖人滅後ほぼ280年もの時間が流れているのです。現代との時間の隔たりで言えば、江戸時代の中頃ぐらいです。
 大聖人の出世の本懐というものがもしも最初から存在していたら、300年近くも歴史の表面に記録が残らないはずがありません。大聖人滅後にそっと模刻して、しばらく保管していたのです。


(8)大石寺派の文献で最初に板本尊の記録が残るのは、1573年以降の日主の文書(是8)

 歴史上初めて板本尊に関する記載が大石寺派の文献に現れたのは、大聖人滅後300年ほども経った、1580年頃に書かれた14世日主の「日興跡條々事示書」が最初のことです。
 そして、それ以降は頻繁に記録が残されているのです。300年にわたって、その存在すら誰も記録に残さないような重大な「宗祖の出世の本懐」が存在するなどということなど考えられるでしょうか。


◎改竄がなされた「日興跡條々事」ではなく、その草本が公開された

 現存する「日興跡條々事」は明らかな改竄が見受けられますが、堀上人が富士宗学要集8巻17ページに記載しているように、
「正本案文共に総本山に現存す」
と記された「案文」が「日蓮と本尊伝承」(水声社 金原明彦)で公開されました。その内容は、
「日興カ当身弘安弐年所給大本尊」
と、日興上人に弘安2年に給わったところの大本尊、ということが記録されているのです。
 つまり、大聖人から日興上人に継承されたのは、「弘安2年の大御本尊」ではなく、大聖人から日興上人に「弘安2年に与えられた」「大本尊」ということなのである。これに該当するものとしては、例えば万年救護本尊は大聖人から日興上人に弘安2年に与えられ、その授与書きには御真筆本尊で唯一「大本尊」という表現が記されているのです。
 そのためか、次項に記載するとおり、唯授一人の血脈相承を受けた歴代の中に万年救護本尊を根本とする見解を持った法主も存在したのです。


(9)大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)

 堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、

「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是
万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」
(通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。)

と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、

「板本尊の事也、今当山に在る也」

と改竄している記録が残されているのです。
 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、

「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」
(通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。)

と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、
「宗門から学会を取ったら何も残らない」
「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」
と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。


 以上のことを総括すれば、阿部は河辺に対して「偽物である」と言ったようですが、これは間違いで、戒壇の大御本尊は事実として立派な模刻本尊なのです。ただ、弘安2年10月の建立などではなく、弘安3年5月の日禅授与本尊を模刻して、(日犬の分析が正しければ)大聖人滅後100年以上経ってから建立されたものなのです。
 あとは、日善授与本尊に模写の形跡があることを確認し、戒壇の大御本尊の炭素14(放射性同位体)を精密に分析して、科学的な証拠を確認すれば、大石寺派の宗旨は根本的に転覆し、いよいよ創価学会も天下晴れて大聖人の言葉(御書)を根本にして、第三の千年の全人類のための教義体系へと再構築をすることになるのです。

 以上の事実を知ってもなお「戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐だと信じる」と、証拠も示せずに幻想にしがみつく方は、「イワシの頭を信じているんだが何か文句あるか」と開き直る原始人と何ら変わりの無い狂信、邪教の信者と言うことが出来ます。
 大聖人が御書で示されている原理を確認してみましょう。

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

 つまり、証拠を示せない主張は邪教だと大聖人は断定されているのです。やはり大石寺派は邪教だったのです

 

宗務広報 No.1319

 投稿者:小川理事  投稿日:2018年 4月 7日(土)22時49分2秒
返信・引用
   宗務院

 多宝寺(秋田県能代市)、宗門へ返還

 本日、これまで正信会問題によって、昭和57年から不法占拠されていた

 誓願山多宝寺が、35年ぶりに宗門へ返還されました。

 これは、同寺元住職であった南出受道が本年1月18日に死去したことによるもので、

 これを機に宗門へ返還されたものであります。

 なお、同寺は、今後、正境寺・桑水流道康師が兼務住職として職務を執行し、

 占有管理してまいります。
                                   以上


 

大ご本尊さま?

 投稿者:真無子  投稿日:2018年 3月 4日(日)18時50分32秒
返信・引用
  あれは、なんども作り直して全然鎌倉時代のものじゃないとある彫り師さんが言ってたよ。個人情報だから名前は出せないけど大石寺が客寄せのために作らせたんだよ。日蓮上人の滅後に勝手に日付まで、さも有りがちに考えて書いちゃってさ。知らなかったの?それと日興上人は、ご本尊様を板に刻むのは大嫌いだったんだよね。  

Re: (勝手に)地涌の流類様

 投稿者:こみかど  投稿日:2018年 2月26日(月)10時12分28秒
返信・引用 編集済
  > No.1763[元記事へ]

横レス失礼します。


(勝手に)地涌の流類さんへのお返事です。

> > また、サム氏は暫く黙っていましたが、無名★氏の奥さんへの「不倫が云々」で切れてしまってようです。
> > サム氏はおそらく愛妻家だと思います。

>
> あまり宜しい例え話じゃなかったようですね。相手が、そう非常に愛妻家かも知れない。例え話をする時は、それがそうであると伝わない場合もあるので、暗喩ではなく直喩にすべきなんですよ。それに、テーマにも問題がありますね。

> 宗教教義が馴染まないのは、「どの教義が正しいのか」「教義に照らしてどんな行いが正しいのか」という話の方であって、無名★氏の信仰を否定したり馬鹿にしたりした事が無名★氏の名誉を毀損したと判断されれば、その教義が正しいか、証明されているかどうかの如何を問わず、名誉毀損が成立するんじゃないでしょうかね?よく判りませんが。



お互いに実名でどこの人物かわかるケースとします。
サム氏は、無名氏に、確証も無い不倫で誹謗中傷された。(不倫が例え事実でも関係ない)
名誉毀損とは、所謂「心に傷付いた」ではなく、「外部的に名誉を毀損しているか」で判断されます。
サム氏の一家で不倫問題が持ち上がれば、一家騒乱や、近所や職場での信用や立場が、非難や軽蔑などで
揺らぐ可能性があります。これが「外部的に名誉を毀損している」事になります。
片や無名氏の信仰が否定されたとしても、それは悪くても「無名氏の心に傷ついた」問題で、それは
「外部的に名誉を毀損している」事になるか? 甚だ疑問です。
 

正法帰伏?終わってますからぁ~

 投稿者:樋田  投稿日:2018年 1月29日(月)18時41分22秒
返信・引用
  大石寺派(すでに広宣流布からリタイアしたので最近は退席痔派とも呼びます)では、自分たちの唯一のアイデンティティとして戒壇の大御本尊を主張しますし、大聖人の御書のとおりに実践していない老衰した自己中心の脱会者が、自分は大御本尊のある方がいいから日犬は悪でも仕方ない、と半泣きで侘びていたりもします。
しかし、貫主であった日顕自身が、戒壇の大御本尊についての真実を示唆する講釈を垂れたことで、いよいよ真実の大聖人の教えが明らかにされる「時」が来たと確信しています。
戒壇の大御本尊という立派な彫刻本尊が、実は大聖人御在世の建立ではないという証拠をたくさん示して、真実の大聖人の仏法について思索する契機としてみましょう。
 なお、それぞれの主張に根拠となる画像ファイルがたくさんあるのですが、ここでは省略させていただきます。

◎日顕が河辺メモでばらした戒壇の大御本尊偽物説の間違い

宗門でも有名な河辺メモは、かつての学会と宗門との連絡会議の学会側の記録と比較するとほとんど表現が一致していること等の実績から、その正確さについては知る人ぞ知る、という記録文書です。
その河辺メモで暴露された昭和53年2月7日付けの阿部教学部長(当時)と帝国ホテルでの会話の内容は、

「S53・3・7、A面談(注:当時阿部教学部長)・帝国H
一、 戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(写真判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。」

というものです。この河辺慈篤(故人)のメモに記載されている内容で重要な点は、
「法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」
の個所です。
 阿部の見解は、戒壇の大御本尊とは弘安3年5月9日に顕わされて日禅に授与された本尊を「籠抜き」と称する手法(御本尊に和紙を当てて、題目を書き写し、次にその和紙を木の板に当てて板に刻むという本尊の作成方法)で彫刻したもので、日時師か日有師の頃の筆だというものです。
 最も確実な確認の方法は、毎年の虫払い法要の際に公開される日禅授与本尊について、実際にどのように籠抜きをした形跡が残っているかを確認すれば良いのでしょうが、宗旨が根本からひっくり返るので、絶対に宗門はそれを認めるはずはないし、聞いても頭から無視し否定するしか道がない。邪宗門の言い訳文書を見ると、

「日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆本尊について(むろん日禅授与本尊も同様)写真撮影や鑑定調査を許していない。」

と、とにかく頭から否定してかかるしか逃れる道が無いことを自覚しているようです。
 しかし、情報化社会の中で、すでに多様な情報が共有されているのですから、阿部の主張を基礎に、そうした公開された情報を参考にして、一つずつ事実確認をすることで、戒壇の大御本尊の真実に迫ることとしましょう。また、邪宗門に対しては、

① 日禅授与本尊に籠抜きをした形跡が残っているかを確認せよ
② 戒壇の大御本尊をわずか数mg削って、AMS法で炭素14を分析せよ

 それによって事実を示せないならば、以下の根拠に基づき、戒壇の大御本尊とは大聖人滅後に日禅授与本尊を模刻したものだと断定するぞ!と責め続けましょう!
 学会総体としても、現時点では従来の宗旨を否定していないようですが、それは大聖人の言葉である

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

に基づいているからで、上記①、②によって完璧に証拠を確認出来たら、いよいよ教義体系を根本から正すことになるのでしょう。


◎戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々

(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い(是1)

 堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の退席寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げかけておられるのです。

「御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」
「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」
「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」
「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」

等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念(日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持していたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。
 要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、というのが堀上人の結論なのです。


(2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しか記載されていない(是2)

 大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、(1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入りの連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、
「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、

「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213)

と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。
 この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、

「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」

と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で板本尊は存在しなかったという証拠の一つです。


(3)戒壇の大御本尊の主題と日禅授与本尊の主題は極めて高い一致(是3)

 大聖人の御真筆本尊は、約140体が現存しており、いくつかを除いて立正安国会がそれらを「御本尊集」として公開しています。これらの御本尊の主題(題目)はデータベースになり、最新のコンピュータ・マッチングという手法でその類似性を確認することが可能です。
 また、戒壇の大御本尊については今まで写真が公開されていたのは熊田葦城著「日蓮聖人」という文献のみで、非常に不鮮明なものであったため、写真鑑定が出来るような状況ではありませんでした。しかし、邪宗門が奉安堂と称する安普請の建屋に御本尊を移転した際に、ある法華講がごく近接した間近な距離で撮影したようで、静岡在住の金原氏が入手したその写真と、日禅授与本尊の写真とをデータとしてパソコンに取り込み、比較をしたのです。
 その結果は驚くべきもので、他の約140体も含めて、御本尊の主題のサイズと形状(とくにヒゲと呼ばれる文字の撥ね方)は、それぞれが大きく異なっているため、当然のことですが一致するようなものは存在しません。
 ところが、日禅授与本尊と戒壇の大御本尊のみについては、御本尊全体のサイズは全く異なるにも拘わらず、題目のサイズと形状の一致度が極めて高いことが判明したのです。この事実は、阿部が主張した「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、(中略)日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」との見解を見事に確認し、証明するものです。
 阿部の息子のシンショウなどは、「そんな昔に、題目を一定の比率で拡大する技術など無かった」と間の抜けた反論をしようとしていたのですが、拡大などではなく、全く同じサイズの主題なのです。そのことを指摘されると、「私は教学は苦手で」「私の信仰だ」と、教学が無いのでシンショウは、大御本尊のことを「鰯の頭」と同じレベルで信じ込んでいることを自ら暴露したのです。お粗末な邪宗門です。


(4)戒壇の大御本尊の座配と日禅授与本尊の座配は完全に一致(是4)

 大聖人の御本尊を比較すれば、十界の座配はほとんどが異なっています。
 例えば、初期の10体ほどの真筆御本尊には、釈迦・多宝の二仏しか書かれておらず、全部が仏界のみです。
 この事実ひとつを見ても、邪宗門が学会の日寛上人の形木本尊を誹謗するに際し、最初の頃には「十界が全部書かれていないからニセ本尊だ」などと真っ赤なウソをついたのが、明らかです。彼らは単に「学会員の信心を破壊するためにならばどんなウソでもついてやる」という天魔の立場であることが理解できます。学会員から破折され、赤恥を晒してすぐに引っ込めたようですが。
 戒壇の大御本尊と日禅授与本尊の座配を比較すると、阿部が指摘したとおり日禅授与本尊を模写したのであれば当然のことですが、十界のすべての表現と共に「仏滅度後二千二百二十余年」までが全く同じ内容なのです。
 そして、「腰書き」と称する御本尊の下部に書き加えられたと考えられる部分に「弘安二年十月十二日」が存在するのです。
 これは、完全な模刻本尊だということです。戒壇の大御本尊とは、日禅授与本尊を大聖人の滅後に模刻したものだという見事な証拠です。


(5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
 これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者の書き方です。
130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は非常に明確な変遷があります。

① 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」
② 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」
③ 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」

 戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。
 そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊には記載されているのです。
 ここでもまた日顕が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。


(6)日興上人が書写された多数の御本尊は日禅授与本尊以外の御本尊を書写している(是6)

 歴代法主は常住本尊を書写するに際して「書写之」と書きますが、この「之」とは「戒壇の大御本尊」という主張が、以前は退席寺派ではまことしやかに流されていました。
 しかし、日興上人が「書写之」として書き残されたたくさんの御本尊の中に、この戒壇の大御本尊と同じ座配のものがどれほどあるかをいくつも調べてみましたが、少なくとも私が調べた範囲では見当たらないのです。数百もの日興上人の真筆御本尊の中には、日禅授与本尊を書写したものは存在するのかもしれませんが、大聖人の御本尊の重要性を熟知し、五老僧の本尊不敬を厳しく批判されておられた厳格な日興上人が、もしも血脈相伝の根本中の根本と称する「一大秘法」の戒壇の大御本尊という教義の根本が現実に存在したのであれば、それを無視して、他の大聖人の御本尊を書写するとはどういうことでしょうか?
 要するにこのことも、日興上人の御存命の頃には、そのような戒壇の大御本尊と称する「一大秘法」は存在していなかったということの傍証なのです。


(7)歴史上初めて板本尊の記録が残るのは、大聖人滅後約280年も経った1561年の保田妙本寺日我の文書(是7)

 すでに指摘したとおり、大聖人の出世の本懐とされた戒壇の大御本尊の存在は、日興上人が身延から富士に移られた際の宝物の中にも、その後の日興上人御在世中の文献にも何一つその記録は残っていません。
 板本尊という教義上特別に重要なはずの存在が、歴史上最初の記録として文献に現れるのは、大石寺派ではなく、4世日道と決別した日郷が開いた寺である千葉県の保田妙本寺出身の、日我という学僧が書き残した「観心本尊抄抜書」なのです。

「書写の本尊に現文あり、造立の仏に現証あり。久遠寺の板本尊今大石寺に在り大聖御存日の時の造立なり、池上の削りかけの御影、御入滅あるべきその九十月に造らせられるなり、一体の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に立て置くべく候」(富要-171)

 しかもその時期は、大聖人滅後ほぼ280年もの時間が流れているのです。現代との時間の隔たりで言えば、江戸時代の中頃ぐらいです。
 大聖人の出世の本懐というものがもしも最初から存在していたら、300年近くも歴史の表面に記録が残らないはずがありません。大聖人滅後にそっと模刻して、しばらく保管していたのです。


(8)大石寺派の文献で最初に板本尊の記録が残るのは、1573年以降の日主の文書(是8)

 歴史上初めて板本尊に関する記載が大石寺派の文献に現れたのは、大聖人滅後300年ほども経った、1580年頃に書かれた14世日主の「日興跡條々事示書」が最初のことです。
 そして、それ以降は頻繁に記録が残されているのです。300年にわたって、その存在すら誰も記録に残さないような重大な「宗祖の出世の本懐」が存在するなどということなど考えられるでしょうか。


◎改竄がなされた「日興跡條々事」ではなく、その草本が公開された

 現存する「日興跡條々事」は明らかな改竄が見受けられますが、堀上人が富士宗学要集8巻17ページに記載しているように、
「正本案文共に総本山に現存す」
と記された「案文」が「日蓮と本尊伝承」(水声社 金原明彦)で公開されました。その内容は、
「日興カ当身弘安弐年所給大本尊」
と、日興上人に弘安2年に給わったところの大本尊、ということが記録されているのです。
 つまり、大聖人から日興上人に継承されたのは、「弘安2年の大御本尊」ではなく、大聖人から日興上人に「弘安2年に与えられた」「大本尊」ということなのである。これに該当するものとしては、例えば万年救護本尊は大聖人から日興上人に弘安2年に与えられ、その授与書きには御真筆本尊で唯一「大本尊」という表現が記されているのです。
 そのためか、次項に記載するとおり、唯授一人の血脈相承を受けた歴代の中に万年救護本尊を根本とする見解を持った法主も存在したのです。


(9)大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)

 堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、

「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是
万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」
(通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。)

と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、

「板本尊の事也、今当山に在る也」

と改竄している記録が残されているのです。
 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、

「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」
(通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。)

と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、
「宗門から学会を取ったら何も残らない」
「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」
と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。


 以上のことを総括すれば、阿部は河辺に対して「偽物である」と言ったようですが、これは間違いで、戒壇の大御本尊は事実として立派な模刻本尊なのです。ただ、弘安2年10月の建立などではなく、弘安3年5月の日禅授与本尊を模刻して、(日犬の分析が正しければ)大聖人滅後100年以上経ってから建立されたものなのです。
 あとは、日善授与本尊に模写の形跡があることを確認し、戒壇の大御本尊の炭素14(放射性同位体)を精密に分析して、科学的な証拠を確認すれば、大石寺派の宗旨は根本的に転覆し、いよいよ創価学会も天下晴れて大聖人の言葉(御書)を根本にして、第三の千年の全人類のための教義体系へと再構築をすることになるのです。

 以上の事実を知ってもなお「戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐だと信じる」と、証拠も示せずに幻想にしがみつく方は、「イワシの頭を信じているんだが何か文句あるか」と開き直る原始人と何ら変わりの無い狂信、邪教の信者と言うことが出来ます。
 大聖人が御書で示されている原理を確認してみましょう。

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

 つまり、証拠を示せない主張は邪教だと大聖人は断定されているのです。やはり大石寺派は邪教だったのです 大石寺派(すでに広宣流布からリタイアしたので最近は退席痔派とも呼びます)では、自分たちの唯一のアイデンティティとして戒壇の大御本尊を主張しますし、大聖人の御書のとおりに実践していない老衰した自己中心の脱会者が、自分は大御本尊のある方がいいから日犬は悪でも仕方ない、と半泣きで侘びていたりもします。
しかし、貫主であった日顕自身が、戒壇の大御本尊についての真実を示唆する講釈を垂れたことで、いよいよ真実の大聖人の教えが明らかにされる「時」が来たと確信しています。
戒壇の大御本尊という立派な彫刻本尊が、実は大聖人御在世の建立ではないという証拠をたくさん示して、真実の大聖人の仏法について思索する契機としてみましょう。
 なお、それぞれの主張に根拠となる画像ファイルがたくさんあるのですが、ここでは省略させていただきます。

◎日顕が河辺メモでばらした戒壇の大御本尊偽物説の間違い

宗門でも有名な河辺メモは、かつての学会と宗門との連絡会議の学会側の記録と比較するとほとんど表現が一致していること等の実績から、その正確さについては知る人ぞ知る、という記録文書です。
その河辺メモで暴露された昭和53年2月7日付けの阿部教学部長(当時)と帝国ホテルでの会話の内容は、

「S53・3・7、A面談(注:当時阿部教学部長)・帝国H
一、 戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(写真判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。」

というものです。この河辺慈篤(故人)のメモに記載されている内容で重要な点は、
「法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」
の個所です。
 阿部の見解は、戒壇の大御本尊とは弘安3年5月9日に顕わされて日禅に授与された本尊を「籠抜き」と称する手法(御本尊に和紙を当てて、題目を書き写し、次にその和紙を木の板に当てて板に刻むという本尊の作成方法)で彫刻したもので、日時師か日有師の頃の筆だというものです。
 最も確実な確認の方法は、毎年の虫払い法要の際に公開される日禅授与本尊について、実際にどのように籠抜きをした形跡が残っているかを確認すれば良いのでしょうが、宗旨が根本からひっくり返るので、絶対に宗門はそれを認めるはずはないし、聞いても頭から無視し否定するしか道がない。邪宗門の言い訳文書を見ると、

「日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆本尊について(むろん日禅授与本尊も同様)写真撮影や鑑定調査を許していない。」

と、とにかく頭から否定してかかるしか逃れる道が無いことを自覚しているようです。
 しかし、情報化社会の中で、すでに多様な情報が共有されているのですから、阿部の主張を基礎に、そうした公開された情報を参考にして、一つずつ事実確認をすることで、戒壇の大御本尊の真実に迫ることとしましょう。また、邪宗門に対しては、

① 日禅授与本尊に籠抜きをした形跡が残っているかを確認せよ
② 戒壇の大御本尊をわずか数mg削って、AMS法で炭素14を分析せよ

 それによって事実を示せないならば、以下の根拠に基づき、戒壇の大御本尊とは大聖人滅後に日禅授与本尊を模刻したものだと断定するぞ!と責め続けましょう!
 学会総体としても、現時点では従来の宗旨を否定していないようですが、それは大聖人の言葉である

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

に基づいているからで、上記①、②によって完璧に証拠を確認出来たら、いよいよ教義体系を根本から正すことになるのでしょう。


◎戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々

(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い(是1)

 堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の退席寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げかけておられるのです。

「御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」
「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」
「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」
「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」

等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念(日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持していたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。
 要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、というのが堀上人の結論なのです。


(2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しか記載されていない(是2)

 大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、(1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入りの連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、
「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、

「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213)

と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。
 この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、

「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」

と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で板本尊は存在しなかったという証拠の一つです。


(3)戒壇の大御本尊の主題と日禅授与本尊の主題は極めて高い一致(是3)

 大聖人の御真筆本尊は、約140体が現存しており、いくつかを除いて立正安国会がそれらを「御本尊集」として公開しています。これらの御本尊の主題(題目)はデータベースになり、最新のコンピュータ・マッチングという手法でその類似性を確認することが可能です。
 また、戒壇の大御本尊については今まで写真が公開されていたのは熊田葦城著「日蓮聖人」という文献のみで、非常に不鮮明なものであったため、写真鑑定が出来るような状況ではありませんでした。しかし、邪宗門が奉安堂と称する安普請の建屋に御本尊を移転した際に、ある法華講がごく近接した間近な距離で撮影したようで、静岡在住の金原氏が入手したその写真と、日禅授与本尊の写真とをデータとしてパソコンに取り込み、比較をしたのです。
 その結果は驚くべきもので、他の約140体も含めて、御本尊の主題のサイズと形状(とくにヒゲと呼ばれる文字の撥ね方)は、それぞれが大きく異なっているため、当然のことですが一致するようなものは存在しません。
 ところが、日禅授与本尊と戒壇の大御本尊のみについては、御本尊全体のサイズは全く異なるにも拘わらず、題目のサイズと形状の一致度が極めて高いことが判明したのです。この事実は、阿部が主張した「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、(中略)日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」との見解を見事に確認し、証明するものです。
 阿部の息子のシンショウなどは、「そんな昔に、題目を一定の比率で拡大する技術など無かった」と間の抜けた反論をしようとしていたのですが、拡大などではなく、全く同じサイズの主題なのです。そのことを指摘されると、「私は教学は苦手で」「私の信仰だ」と、教学が無いのでシンショウは、大御本尊のことを「鰯の頭」と同じレベルで信じ込んでいることを自ら暴露したのです。お粗末な邪宗門です。


(4)戒壇の大御本尊の座配と日禅授与本尊の座配は完全に一致(是4)

 大聖人の御本尊を比較すれば、十界の座配はほとんどが異なっています。
 例えば、初期の10体ほどの真筆御本尊には、釈迦・多宝の二仏しか書かれておらず、全部が仏界のみです。
 この事実ひとつを見ても、邪宗門が学会の日寛上人の形木本尊を誹謗するに際し、最初の頃には「十界が全部書かれていないからニセ本尊だ」などと真っ赤なウソをついたのが、明らかです。彼らは単に「学会員の信心を破壊するためにならばどんなウソでもついてやる」という天魔の立場であることが理解できます。学会員から破折され、赤恥を晒してすぐに引っ込めたようですが。
 戒壇の大御本尊と日禅授与本尊の座配を比較すると、阿部が指摘したとおり日禅授与本尊を模写したのであれば当然のことですが、十界のすべての表現と共に「仏滅度後二千二百二十余年」までが全く同じ内容なのです。
 そして、「腰書き」と称する御本尊の下部に書き加えられたと考えられる部分に「弘安二年十月十二日」が存在するのです。
 これは、完全な模刻本尊だということです。戒壇の大御本尊とは、日禅授与本尊を大聖人の滅後に模刻したものだという見事な証拠です。


(5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
 これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者の書き方です。
130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は非常に明確な変遷があります。

① 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」
② 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」
③ 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」

 戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。
 そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊には記載されているのです。
 ここでもまた日顕が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。


(6)日興上人が書写された多数の御本尊は日禅授与本尊以外の御本尊を書写している(是6)

 歴代法主は常住本尊を書写するに際して「書写之」と書きますが、この「之」とは「戒壇の大御本尊」という主張が、以前は退席寺派ではまことしやかに流されていました。
 しかし、日興上人が「書写之」として書き残されたたくさんの御本尊の中に、この戒壇の大御本尊と同じ座配のものがどれほどあるかをいくつも調べてみましたが、少なくとも私が調べた範囲では見当たらないのです。数百もの日興上人の真筆御本尊の中には、日禅授与本尊を書写したものは存在するのかもしれませんが、大聖人の御本尊の重要性を熟知し、五老僧の本尊不敬を厳しく批判されておられた厳格な日興上人が、もしも血脈相伝の根本中の根本と称する「一大秘法」の戒壇の大御本尊という教義の根本が現実に存在したのであれば、それを無視して、他の大聖人の御本尊を書写するとはどういうことでしょうか?
 要するにこのことも、日興上人の御存命の頃には、そのような戒壇の大御本尊と称する「一大秘法」は存在していなかったということの傍証なのです。


(7)歴史上初めて板本尊の記録が残るのは、大聖人滅後約280年も経った1561年の保田妙本寺日我の文書(是7)

 すでに指摘したとおり、大聖人の出世の本懐とされた戒壇の大御本尊の存在は、日興上人が身延から富士に移られた際の宝物の中にも、その後の日興上人御在世中の文献にも何一つその記録は残っていません。
 板本尊という教義上特別に重要なはずの存在が、歴史上最初の記録として文献に現れるのは、大石寺派ではなく、4世日道と決別した日郷が開いた寺である千葉県の保田妙本寺出身の、日我という学僧が書き残した「観心本尊抄抜書」なのです。

「書写の本尊に現文あり、造立の仏に現証あり。久遠寺の板本尊今大石寺に在り大聖御存日の時の造立なり、池上の削りかけの御影、御入滅あるべきその九十月に造らせられるなり、一体の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に立て置くべく候」(富要-171)

 しかもその時期は、大聖人滅後ほぼ280年もの時間が流れているのです。現代との時間の隔たりで言えば、江戸時代の中頃ぐらいです。
 大聖人の出世の本懐というものがもしも最初から存在していたら、300年近くも歴史の表面に記録が残らないはずがありません。大聖人滅後にそっと模刻して、しばらく保管していたのです。


(8)大石寺派の文献で最初に板本尊の記録が残るのは、1573年以降の日主の文書(是8)

 歴史上初めて板本尊に関する記載が大石寺派の文献に現れたのは、大聖人滅後300年ほども経った、1580年頃に書かれた14世日主の「日興跡條々事示書」が最初のことです。
 そして、それ以降は頻繁に記録が残されているのです。300年にわたって、その存在すら誰も記録に残さないような重大な「宗祖の出世の本懐」が存在するなどということなど考えられるでしょうか。


◎改竄がなされた「日興跡條々事」ではなく、その草本が公開された

 現存する「日興跡條々事」は明らかな改竄が見受けられますが、堀上人が富士宗学要集8巻17ページに記載しているように、
「正本案文共に総本山に現存す」
と記された「案文」が「日蓮と本尊伝承」(水声社 金原明彦)で公開されました。その内容は、
「日興カ当身弘安弐年所給大本尊」
と、日興上人に弘安2年に給わったところの大本尊、ということが記録されているのです。
 つまり、大聖人から日興上人に継承されたのは、「弘安2年の大御本尊」ではなく、大聖人から日興上人に「弘安2年に与えられた」「大本尊」ということなのである。これに該当するものとしては、例えば万年救護本尊は大聖人から日興上人に弘安2年に与えられ、その授与書きには御真筆本尊で唯一「大本尊」という表現が記されているのです。
 そのためか、次項に記載するとおり、唯授一人の血脈相承を受けた歴代の中に万年救護本尊を根本とする見解を持った法主も存在したのです。


(9)大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)

 堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、

「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是
万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」
(通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。)

と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、

「板本尊の事也、今当山に在る也」

と改竄している記録が残されているのです。
 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、

「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」
(通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。)

と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、
「宗門から学会を取ったら何も残らない」
「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」
と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。


 以上のことを総括すれば、阿部は河辺に対して「偽物である」と言ったようですが、これは間違いで、戒壇の大御本尊は事実として立派な模刻本尊なのです。ただ、弘安2年10月の建立などではなく、弘安3年5月の日禅授与本尊を模刻して、(日犬の分析が正しければ)大聖人滅後100年以上経ってから建立されたものなのです。
 あとは、日善授与本尊に模写の形跡があることを確認し、戒壇の大御本尊の炭素14(放射性同位体)を精密に分析して、科学的な証拠を確認すれば、大石寺派の宗旨は根本的に転覆し、いよいよ創価学会も天下晴れて大聖人の言葉(御書)を根本にして、第三の千年の全人類のための教義体系へと再構築をすることになるのです。

 以上の事実を知ってもなお「戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐だと信じる」と、証拠も示せずに幻想にしがみつく方は、「イワシの頭を信じているんだが何か文句あるか」と開き直る原始人と何ら変わりの無い狂信、邪教の信者と言うことが出来ます。
 大聖人が御書で示されている原理を確認してみましょう。

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

 つまり、証拠を示せない主張は邪教だと大聖人は断定されているのです。やはり大石寺派は邪教だったのです

 

正法帰伏を願う

 投稿者:花戦さ  投稿日:2018年 1月27日(土)22時30分35秒
返信・引用
  最近、安保法改正に賛同する公明党・創価学会現執行部に対する反対運動が報道された。

学会内部は何やら騒がしい様子だ。もとより破門された団体の内紛など当方とは無関係。

しかし、末端の学会員が、創価学会や池田大作について、先入観を捨てて、もう一度よく考えてみる機会になるのなら、一利あるのかも知れない。

「積善の家に余慶あり」ということわざがある。

これは、善行を積んだ人の報いは、子々孫々まで伝わるという意味だ。当欄を目にした学会諸氏には、まだ"余慶"があったと信じたい。

どうか一度、勇気を出して日蓮正宗の寺院を訪ねてもらいたい。

"余慶"が尽きぬその前に、一刻も早く正法に帰依すべきである。最後に申し上げる。「一方的な情報に頼るのではなく、自分の目と耳で真実を知ろう」

「幹部の言葉ではなく、大聖人の御金言を信じよう」


 

日蓮正宗の凄い?論客?現れる!

 投稿者:匿名  投稿日:2018年 1月22日(月)14時03分49秒
返信・引用
  日蓮正宗の凄い?論客?現れる!

武田 ◆suAWBE/EJA 氏曰く

いいか、糞アスペ
なんでその程度で俺に勝てると思い込んでんだか知らんが、時間の無駄なんだよ
こっちはもう10年以上もネットで法論しまくってるから
原始仏教かぶれや他宗の坊主・信徒を論破するための材料は
いろいろと保存してあるんだよw
http://egg.5ch.net/test/read.cgi/koumei/1515362922/l50

なのですと。 凄い自信満々?の方の様ですね? (口も悪いし)










 

明年1月から始まる

 投稿者:樋田  投稿日:2017年12月19日(火)14時07分56秒
返信・引用
  大石寺派(すでに広宣流布からリタイアしたので最近は退席痔派とも呼びます)では、自分たちの唯一のアイデンティティとして戒壇の大御本尊を主張しますし、大聖人の御書のとおりに実践していない老衰した自己中心の脱会者が、自分は大御本尊のある方がいいから日犬は悪でも仕方ない、と半泣きで侘びていたりもします。
しかし、貫主であった日顕自身が、戒壇の大御本尊についての真実を示唆する講釈を垂れたことで、いよいよ真実の大聖人の教えが明らかにされる「時」が来たと確信しています。
戒壇の大御本尊という立派な彫刻本尊が、実は大聖人御在世の建立ではないという証拠をたくさん示して、真実の大聖人の仏法について思索する契機としてみましょう。
 なお、それぞれの主張に根拠となる画像ファイルがたくさんあるのですが、ここでは省略させていただきます。

◎日顕が河辺メモでばらした戒壇の大御本尊偽物説の間違い

宗門でも有名な河辺メモは、かつての学会と宗門との連絡会議の学会側の記録と比較するとほとんど表現が一致していること等の実績から、その正確さについては知る人ぞ知る、という記録文書です。
その河辺メモで暴露された昭和53年2月7日付けの阿部教学部長(当時)と帝国ホテルでの会話の内容は、

「S53・3・7、A面談(注:当時阿部教学部長)・帝国H
一、 戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(写真判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。」

というものです。この河辺慈篤(故人)のメモに記載されている内容で重要な点は、
「法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」
の個所です。
 阿部の見解は、戒壇の大御本尊とは弘安3年5月9日に顕わされて日禅に授与された本尊を「籠抜き」と称する手法(御本尊に和紙を当てて、題目を書き写し、次にその和紙を木の板に当てて板に刻むという本尊の作成方法)で彫刻したもので、日時師か日有師の頃の筆だというものです。
 最も確実な確認の方法は、毎年の虫払い法要の際に公開される日禅授与本尊について、実際にどのように籠抜きをした形跡が残っているかを確認すれば良いのでしょうが、宗旨が根本からひっくり返るので、絶対に宗門はそれを認めるはずはないし、聞いても頭から無視し否定するしか道がない。邪宗門の言い訳文書を見ると、

「日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆本尊について(むろん日禅授与本尊も同様)写真撮影や鑑定調査を許していない。」

と、とにかく頭から否定してかかるしか逃れる道が無いことを自覚しているようです。
 しかし、情報化社会の中で、すでに多様な情報が共有されているのですから、阿部の主張を基礎に、そうした公開された情報を参考にして、一つずつ事実確認をすることで、戒壇の大御本尊の真実に迫ることとしましょう。また、邪宗門に対しては、

① 日禅授与本尊に籠抜きをした形跡が残っているかを確認せよ
② 戒壇の大御本尊をわずか数mg削って、AMS法で炭素14を分析せよ

 それによって事実を示せないならば、以下の根拠に基づき、戒壇の大御本尊とは大聖人滅後に日禅授与本尊を模刻したものだと断定するぞ!と責め続けましょう!
 学会総体としても、現時点では従来の宗旨を否定していないようですが、それは大聖人の言葉である

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

に基づいているからで、上記①、②によって完璧に証拠を確認出来たら、いよいよ教義体系を根本から正すことになるのでしょう。


◎戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々

(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い(是1)

 堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の退席寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げかけておられるのです。

「御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」
「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」
「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」
「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」

等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念(日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持していたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。
 要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、というのが堀上人の結論なのです。


(2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しか記載されていない(是2)

 大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、(1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入りの連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、
「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、

「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213)

と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。
 この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、

「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」

と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で板本尊は存在しなかったという証拠の一つです。


(3)戒壇の大御本尊の主題と日禅授与本尊の主題は極めて高い一致(是3)

 大聖人の御真筆本尊は、約140体が現存しており、いくつかを除いて立正安国会がそれらを「御本尊集」として公開しています。これらの御本尊の主題(題目)はデータベースになり、最新のコンピュータ・マッチングという手法でその類似性を確認することが可能です。
 また、戒壇の大御本尊については今まで写真が公開されていたのは熊田葦城著「日蓮聖人」という文献のみで、非常に不鮮明なものであったため、写真鑑定が出来るような状況ではありませんでした。しかし、邪宗門が奉安堂と称する安普請の建屋に御本尊を移転した際に、ある法華講がごく近接した間近な距離で撮影したようで、静岡在住の金原氏が入手したその写真と、日禅授与本尊の写真とをデータとしてパソコンに取り込み、比較をしたのです。
 その結果は驚くべきもので、他の約140体も含めて、御本尊の主題のサイズと形状(とくにヒゲと呼ばれる文字の撥ね方)は、それぞれが大きく異なっているため、当然のことですが一致するようなものは存在しません。
 ところが、日禅授与本尊と戒壇の大御本尊のみについては、御本尊全体のサイズは全く異なるにも拘わらず、題目のサイズと形状の一致度が極めて高いことが判明したのです。この事実は、阿部が主張した「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、(中略)日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」との見解を見事に確認し、証明するものです。
 阿部の息子のシンショウなどは、「そんな昔に、題目を一定の比率で拡大する技術など無かった」と間の抜けた反論をしようとしていたのですが、拡大などではなく、全く同じサイズの主題なのです。そのことを指摘されると、「私は教学は苦手で」「私の信仰だ」と、教学が無いのでシンショウは、大御本尊のことを「鰯の頭」と同じレベルで信じ込んでいることを自ら暴露したのです。お粗末な邪宗門です。


(4)戒壇の大御本尊の座配と日禅授与本尊の座配は完全に一致(是4)

 大聖人の御本尊を比較すれば、十界の座配はほとんどが異なっています。
 例えば、初期の10体ほどの真筆御本尊には、釈迦・多宝の二仏しか書かれておらず、全部が仏界のみです。
 この事実ひとつを見ても、邪宗門が学会の日寛上人の形木本尊を誹謗するに際し、最初の頃には「十界が全部書かれていないからニセ本尊だ」などと真っ赤なウソをついたのが、明らかです。彼らは単に「学会員の信心を破壊するためにならばどんなウソでもついてやる」という天魔の立場であることが理解できます。学会員から破折され、赤恥を晒してすぐに引っ込めたようですが。
 戒壇の大御本尊と日禅授与本尊の座配を比較すると、阿部が指摘したとおり日禅授与本尊を模写したのであれば当然のことですが、十界のすべての表現と共に「仏滅度後二千二百二十余年」までが全く同じ内容なのです。
 そして、「腰書き」と称する御本尊の下部に書き加えられたと考えられる部分に「弘安二年十月十二日」が存在するのです。
 これは、完全な模刻本尊だということです。戒壇の大御本尊とは、日禅授与本尊を大聖人の滅後に模刻したものだという見事な証拠です。


(5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
 これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者の書き方です。
130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は非常に明確な変遷があります。

① 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」
② 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」
③ 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」

 戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。
 そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊には記載されているのです。
 ここでもまた日顕が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。


(6)日興上人が書写された多数の御本尊は日禅授与本尊以外の御本尊を書写している(是6)

 歴代法主は常住本尊を書写するに際して「書写之」と書きますが、この「之」とは「戒壇の大御本尊」という主張が、以前は退席寺派ではまことしやかに流されていました。
 しかし、日興上人が「書写之」として書き残されたたくさんの御本尊の中に、この戒壇の大御本尊と同じ座配のものがどれほどあるかをいくつも調べてみましたが、少なくとも私が調べた範囲では見当たらないのです。数百もの日興上人の真筆御本尊の中には、日禅授与本尊を書写したものは存在するのかもしれませんが、大聖人の御本尊の重要性を熟知し、五老僧の本尊不敬を厳しく批判されておられた厳格な日興上人が、もしも血脈相伝の根本中の根本と称する「一大秘法」の戒壇の大御本尊という教義の根本が現実に存在したのであれば、それを無視して、他の大聖人の御本尊を書写するとはどういうことでしょうか?
 要するにこのことも、日興上人の御存命の頃には、そのような戒壇の大御本尊と称する「一大秘法」は存在していなかったということの傍証なのです。


(7)歴史上初めて板本尊の記録が残るのは、大聖人滅後約280年も経った1561年の保田妙本寺日我の文書(是7)

 すでに指摘したとおり、大聖人の出世の本懐とされた戒壇の大御本尊の存在は、日興上人が身延から富士に移られた際の宝物の中にも、その後の日興上人御在世中の文献にも何一つその記録は残っていません。
 板本尊という教義上特別に重要なはずの存在が、歴史上最初の記録として文献に現れるのは、大石寺派ではなく、4世日道と決別した日郷が開いた寺である千葉県の保田妙本寺出身の、日我という学僧が書き残した「観心本尊抄抜書」なのです。

「書写の本尊に現文あり、造立の仏に現証あり。久遠寺の板本尊今大石寺に在り大聖御存日の時の造立なり、池上の削りかけの御影、御入滅あるべきその九十月に造らせられるなり、一体の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に立て置くべく候」(富要-171)

 しかもその時期は、大聖人滅後ほぼ280年もの時間が流れているのです。現代との時間の隔たりで言えば、江戸時代の中頃ぐらいです。
 大聖人の出世の本懐というものがもしも最初から存在していたら、300年近くも歴史の表面に記録が残らないはずがありません。大聖人滅後にそっと模刻して、しばらく保管していたのです。


(8)大石寺派の文献で最初に板本尊の記録が残るのは、1573年以降の日主の文書(是8)

 歴史上初めて板本尊に関する記載が大石寺派の文献に現れたのは、大聖人滅後300年ほども経った、1580年頃に書かれた14世日主の「日興跡條々事示書」が最初のことです。
 そして、それ以降は頻繁に記録が残されているのです。300年にわたって、その存在すら誰も記録に残さないような重大な「宗祖の出世の本懐」が存在するなどということなど考えられるでしょうか。


◎改竄がなされた「日興跡條々事」ではなく、その草本が公開された

 現存する「日興跡條々事」は明らかな改竄が見受けられますが、堀上人が富士宗学要集8巻17ページに記載しているように、
「正本案文共に総本山に現存す」
と記された「案文」が「日蓮と本尊伝承」(水声社 金原明彦)で公開されました。その内容は、
「日興カ当身弘安弐年所給大本尊」
と、日興上人に弘安2年に給わったところの大本尊、ということが記録されているのです。
 つまり、大聖人から日興上人に継承されたのは、「弘安2年の大御本尊」ではなく、大聖人から日興上人に「弘安2年に与えられた」「大本尊」ということなのである。これに該当するものとしては、例えば万年救護本尊は大聖人から日興上人に弘安2年に与えられ、その授与書きには御真筆本尊で唯一「大本尊」という表現が記されているのです。
 そのためか、次項に記載するとおり、唯授一人の血脈相承を受けた歴代の中に万年救護本尊を根本とする見解を持った法主も存在したのです。


(9)大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)

 堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、

「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是
万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」
(通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。)

と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、

「板本尊の事也、今当山に在る也」

と改竄している記録が残されているのです。
 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、

「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」
(通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。)

と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、
「宗門から学会を取ったら何も残らない」
「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」
と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。


 以上のことを総括すれば、阿部は河辺に対して「偽物である」と言ったようですが、これは間違いで、戒壇の大御本尊は事実として立派な模刻本尊なのです。ただ、弘安2年10月の建立などではなく、弘安3年5月の日禅授与本尊を模刻して、(日犬の分析が正しければ)大聖人滅後100年以上経ってから建立されたものなのです。
 あとは、日善授与本尊に模写の形跡があることを確認し、戒壇の大御本尊の炭素14(放射性同位体)を精密に分析して、科学的な証拠を確認すれば、大石寺派の宗旨は根本的に転覆し、いよいよ創価学会も天下晴れて大聖人の言葉(御書)を根本にして、第三の千年の全人類のための教義体系へと再構築をすることになるのです。

 以上の事実を知ってもなお「戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐だと信じる」と、証拠も示せずに幻想にしがみつく方は、「イワシの頭を信じているんだが何か文句あるか」と開き直る原始人と何ら変わりの無い狂信、邪教の信者と言うことが出来ます。
 大聖人が御書で示されている原理を確認してみましょう。

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

 つまり、証拠を示せない主張は邪教だと大聖人は断定されているのです。やはり大石寺派は邪教だったのです 大石寺派(すでに広宣流布からリタイアしたので最近は退席痔派とも呼びます)では、自分たちの唯一のアイデンティティとして戒壇の大御本尊を主張しますし、大聖人の御書のとおりに実践していない老衰した自己中心の脱会者が、自分は大御本尊のある方がいいから日犬は悪でも仕方ない、と半泣きで侘びていたりもします。
しかし、貫主であった日顕自身が、戒壇の大御本尊についての真実を示唆する講釈を垂れたことで、いよいよ真実の大聖人の教えが明らかにされる「時」が来たと確信しています。
戒壇の大御本尊という立派な彫刻本尊が、実は大聖人御在世の建立ではないという証拠をたくさん示して、真実の大聖人の仏法について思索する契機としてみましょう。
 なお、それぞれの主張に根拠となる画像ファイルがたくさんあるのですが、ここでは省略させていただきます。

◎日顕が河辺メモでばらした戒壇の大御本尊偽物説の間違い

宗門でも有名な河辺メモは、かつての学会と宗門との連絡会議の学会側の記録と比較するとほとんど表現が一致していること等の実績から、その正確さについては知る人ぞ知る、という記録文書です。
その河辺メモで暴露された昭和53年2月7日付けの阿部教学部長(当時)と帝国ホテルでの会話の内容は、

「S53・3・7、A面談(注:当時阿部教学部長)・帝国H
一、 戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(写真判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。」

というものです。この河辺慈篤(故人)のメモに記載されている内容で重要な点は、
「法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」
の個所です。
 阿部の見解は、戒壇の大御本尊とは弘安3年5月9日に顕わされて日禅に授与された本尊を「籠抜き」と称する手法(御本尊に和紙を当てて、題目を書き写し、次にその和紙を木の板に当てて板に刻むという本尊の作成方法)で彫刻したもので、日時師か日有師の頃の筆だというものです。
 最も確実な確認の方法は、毎年の虫払い法要の際に公開される日禅授与本尊について、実際にどのように籠抜きをした形跡が残っているかを確認すれば良いのでしょうが、宗旨が根本からひっくり返るので、絶対に宗門はそれを認めるはずはないし、聞いても頭から無視し否定するしか道がない。邪宗門の言い訳文書を見ると、

「日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆本尊について(むろん日禅授与本尊も同様)写真撮影や鑑定調査を許していない。」

と、とにかく頭から否定してかかるしか逃れる道が無いことを自覚しているようです。
 しかし、情報化社会の中で、すでに多様な情報が共有されているのですから、阿部の主張を基礎に、そうした公開された情報を参考にして、一つずつ事実確認をすることで、戒壇の大御本尊の真実に迫ることとしましょう。また、邪宗門に対しては、

① 日禅授与本尊に籠抜きをした形跡が残っているかを確認せよ
② 戒壇の大御本尊をわずか数mg削って、AMS法で炭素14を分析せよ

 それによって事実を示せないならば、以下の根拠に基づき、戒壇の大御本尊とは大聖人滅後に日禅授与本尊を模刻したものだと断定するぞ!と責め続けましょう!
 学会総体としても、現時点では従来の宗旨を否定していないようですが、それは大聖人の言葉である

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

に基づいているからで、上記①、②によって完璧に証拠を確認出来たら、いよいよ教義体系を根本から正すことになるのでしょう。


◎戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々

(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い(是1)

 堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の退席寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げかけておられるのです。

「御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」
「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」
「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」
「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」

等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念(日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持していたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。
 要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、というのが堀上人の結論なのです。


(2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しか記載されていない(是2)

 大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、(1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入りの連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、
「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、

「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213)

と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。
 この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、

「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」

と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で板本尊は存在しなかったという証拠の一つです。


(3)戒壇の大御本尊の主題と日禅授与本尊の主題は極めて高い一致(是3)

 大聖人の御真筆本尊は、約140体が現存しており、いくつかを除いて立正安国会がそれらを「御本尊集」として公開しています。これらの御本尊の主題(題目)はデータベースになり、最新のコンピュータ・マッチングという手法でその類似性を確認することが可能です。
 また、戒壇の大御本尊については今まで写真が公開されていたのは熊田葦城著「日蓮聖人」という文献のみで、非常に不鮮明なものであったため、写真鑑定が出来るような状況ではありませんでした。しかし、邪宗門が奉安堂と称する安普請の建屋に御本尊を移転した際に、ある法華講がごく近接した間近な距離で撮影したようで、静岡在住の金原氏が入手したその写真と、日禅授与本尊の写真とをデータとしてパソコンに取り込み、比較をしたのです。
 その結果は驚くべきもので、他の約140体も含めて、御本尊の主題のサイズと形状(とくにヒゲと呼ばれる文字の撥ね方)は、それぞれが大きく異なっているため、当然のことですが一致するようなものは存在しません。
 ところが、日禅授与本尊と戒壇の大御本尊のみについては、御本尊全体のサイズは全く異なるにも拘わらず、題目のサイズと形状の一致度が極めて高いことが判明したのです。この事実は、阿部が主張した「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、(中略)日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」との見解を見事に確認し、証明するものです。
 阿部の息子のシンショウなどは、「そんな昔に、題目を一定の比率で拡大する技術など無かった」と間の抜けた反論をしようとしていたのですが、拡大などではなく、全く同じサイズの主題なのです。そのことを指摘されると、「私は教学は苦手で」「私の信仰だ」と、教学が無いのでシンショウは、大御本尊のことを「鰯の頭」と同じレベルで信じ込んでいることを自ら暴露したのです。お粗末な邪宗門です。


(4)戒壇の大御本尊の座配と日禅授与本尊の座配は完全に一致(是4)

 大聖人の御本尊を比較すれば、十界の座配はほとんどが異なっています。
 例えば、初期の10体ほどの真筆御本尊には、釈迦・多宝の二仏しか書かれておらず、全部が仏界のみです。
 この事実ひとつを見ても、邪宗門が学会の日寛上人の形木本尊を誹謗するに際し、最初の頃には「十界が全部書かれていないからニセ本尊だ」などと真っ赤なウソをついたのが、明らかです。彼らは単に「学会員の信心を破壊するためにならばどんなウソでもついてやる」という天魔の立場であることが理解できます。学会員から破折され、赤恥を晒してすぐに引っ込めたようですが。
 戒壇の大御本尊と日禅授与本尊の座配を比較すると、阿部が指摘したとおり日禅授与本尊を模写したのであれば当然のことですが、十界のすべての表現と共に「仏滅度後二千二百二十余年」までが全く同じ内容なのです。
 そして、「腰書き」と称する御本尊の下部に書き加えられたと考えられる部分に「弘安二年十月十二日」が存在するのです。
 これは、完全な模刻本尊だということです。戒壇の大御本尊とは、日禅授与本尊を大聖人の滅後に模刻したものだという見事な証拠です。


(5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
 これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者の書き方です。
130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は非常に明確な変遷があります。

① 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」
② 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」
③ 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」

 戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。
 そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊には記載されているのです。
 ここでもまた日顕が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。


(6)日興上人が書写された多数の御本尊は日禅授与本尊以外の御本尊を書写している(是6)

 歴代法主は常住本尊を書写するに際して「書写之」と書きますが、この「之」とは「戒壇の大御本尊」という主張が、以前は退席寺派ではまことしやかに流されていました。
 しかし、日興上人が「書写之」として書き残されたたくさんの御本尊の中に、この戒壇の大御本尊と同じ座配のものがどれほどあるかをいくつも調べてみましたが、少なくとも私が調べた範囲では見当たらないのです。数百もの日興上人の真筆御本尊の中には、日禅授与本尊を書写したものは存在するのかもしれませんが、大聖人の御本尊の重要性を熟知し、五老僧の本尊不敬を厳しく批判されておられた厳格な日興上人が、もしも血脈相伝の根本中の根本と称する「一大秘法」の戒壇の大御本尊という教義の根本が現実に存在したのであれば、それを無視して、他の大聖人の御本尊を書写するとはどういうことでしょうか?
 要するにこのことも、日興上人の御存命の頃には、そのような戒壇の大御本尊と称する「一大秘法」は存在していなかったということの傍証なのです。


(7)歴史上初めて板本尊の記録が残るのは、大聖人滅後約280年も経った1561年の保田妙本寺日我の文書(是7)

 すでに指摘したとおり、大聖人の出世の本懐とされた戒壇の大御本尊の存在は、日興上人が身延から富士に移られた際の宝物の中にも、その後の日興上人御在世中の文献にも何一つその記録は残っていません。
 板本尊という教義上特別に重要なはずの存在が、歴史上最初の記録として文献に現れるのは、大石寺派ではなく、4世日道と決別した日郷が開いた寺である千葉県の保田妙本寺出身の、日我という学僧が書き残した「観心本尊抄抜書」なのです。

「書写の本尊に現文あり、造立の仏に現証あり。久遠寺の板本尊今大石寺に在り大聖御存日の時の造立なり、池上の削りかけの御影、御入滅あるべきその九十月に造らせられるなり、一体の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に立て置くべく候」(富要-171)

 しかもその時期は、大聖人滅後ほぼ280年もの時間が流れているのです。現代との時間の隔たりで言えば、江戸時代の中頃ぐらいです。
 大聖人の出世の本懐というものがもしも最初から存在していたら、300年近くも歴史の表面に記録が残らないはずがありません。大聖人滅後にそっと模刻して、しばらく保管していたのです。


(8)大石寺派の文献で最初に板本尊の記録が残るのは、1573年以降の日主の文書(是8)

 歴史上初めて板本尊に関する記載が大石寺派の文献に現れたのは、大聖人滅後300年ほども経った、1580年頃に書かれた14世日主の「日興跡條々事示書」が最初のことです。
 そして、それ以降は頻繁に記録が残されているのです。300年にわたって、その存在すら誰も記録に残さないような重大な「宗祖の出世の本懐」が存在するなどということなど考えられるでしょうか。


◎改竄がなされた「日興跡條々事」ではなく、その草本が公開された

 現存する「日興跡條々事」は明らかな改竄が見受けられますが、堀上人が富士宗学要集8巻17ページに記載しているように、
「正本案文共に総本山に現存す」
と記された「案文」が「日蓮と本尊伝承」(水声社 金原明彦)で公開されました。その内容は、
「日興カ当身弘安弐年所給大本尊」
と、日興上人に弘安2年に給わったところの大本尊、ということが記録されているのです。
 つまり、大聖人から日興上人に継承されたのは、「弘安2年の大御本尊」ではなく、大聖人から日興上人に「弘安2年に与えられた」「大本尊」ということなのである。これに該当するものとしては、例えば万年救護本尊は大聖人から日興上人に弘安2年に与えられ、その授与書きには御真筆本尊で唯一「大本尊」という表現が記されているのです。
 そのためか、次項に記載するとおり、唯授一人の血脈相承を受けた歴代の中に万年救護本尊を根本とする見解を持った法主も存在したのです。


(9)大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)

 堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、

「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是
万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」
(通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。)

と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、

「板本尊の事也、今当山に在る也」

と改竄している記録が残されているのです。
 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、

「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」
(通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。)

と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、
「宗門から学会を取ったら何も残らない」
「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」
と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。


 以上のことを総括すれば、阿部は河辺に対して「偽物である」と言ったようですが、これは間違いで、戒壇の大御本尊は事実として立派な模刻本尊なのです。ただ、弘安2年10月の建立などではなく、弘安3年5月の日禅授与本尊を模刻して、(日犬の分析が正しければ)大聖人滅後100年以上経ってから建立されたものなのです。
 あとは、日善授与本尊に模写の形跡があることを確認し、戒壇の大御本尊の炭素14(放射性同位体)を精密に分析して、科学的な証拠を確認すれば、大石寺派の宗旨は根本的に転覆し、いよいよ創価学会も天下晴れて大聖人の言葉(御書)を根本にして、第三の千年の全人類のための教義体系へと再構築をすることになるのです。

 以上の事実を知ってもなお「戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐だと信じる」と、証拠も示せずに幻想にしがみつく方は、「イワシの頭を信じているんだが何か文句あるか」と開き直る原始人と何ら変わりの無い狂信、邪教の信者と言うことが出来ます。
 大聖人が御書で示されている原理を確認してみましょう。

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

 つまり、証拠を示せない主張は邪教だと大聖人は断定されているのです。やはり大石寺派は邪教だったのです

 

明年1月から始まる

 投稿者:創価学会破折  投稿日:2017年12月18日(月)19時23分9秒
返信・引用
  法華講員八十万人体勢構築推進
僧俗指導会について

 平成三十年「行動の年」の年頭より、「法華講員八十万人体勢構築推進僧俗
指導会」が開催されます。

 この僧俗指導会は、平成三十三年の大佳節に向かって残り三年となる大事な
年の初めに当たり、一月中にすべての布教区で行われる予定です。

 指導会には各支部から、講頭、副講頭、認証役員、支部役員、活動者が参加
します。

 参加者は、指導会出席後にいち早く御指導等の内容を講中に持ち帰って、す
みずみまで伝えましょう。

 また、参加者のみならず全講員が意識を高め、指導会の内容を講中としてい
かに真剣に考え、実践していくかが大切です。

 全講員が持てる力を十分に発揮し、組織戦を展開できるよう短期・中期・長
期の具体的な活動計画を立て、指導教師の御住職・御主管の御指導のもと、心
を一つに誓願達成に向けて行動してまいりましょう。

 

明年1月2日(火)・3日(水)新年初登山について

 投稿者:創価学会破折  投稿日:2017年12月18日(月)19時19分2秒
返信・引用
   明年一月二日(火)・三日(水)の二日間にわたって「法華講新年初登山」が行
われます。登山は、二日、三日の日帰り、または一泊二日です。

 日帰りの登山者は、それぞれ決められた日時の御開扉に参加して本門戒壇の
大御本尊様への御内拝を戴き、新年を寿ぎつつ一年の決意を固め、折伏推進と
目標達成を御祈念申し上げます。

 一泊二日で参詣する登山者は、御開扉への参加、宿坊での勤行・夕食の後、
午後七時からの布教講演会に参加します。

 二日目は、丑寅勤行への参加、明けて、午前八時からの一月唱題行に参加し
ます。

 なお、各支部代表信徒は、二日の午前十時から御法主日如上人猊下に御目通
り申し上げます。

 

日顕消臭破折

 投稿者:走れエロス  投稿日:2017年12月15日(金)17時31分37秒
返信・引用
  諏訪涼道の布教講演は的外れ
身の程知らずの「大白法」の駄文を笑う
日顕と政子がクリスマスツリーを見学、撮影

日蓮正宗の機関紙「大白法」は無知な編集部が作っているようだ。最近の駄
文の中から二つ取り上げる。

まず、十二月一日付では大石寺のお会式での布教講演で諏訪涼道(霑妙寺)が
学会を批判している記事を掲載しているが、これは的外れ。諏訪の卑劣な話を
詳しく紹介するのは紙面の無駄なので簡潔に述べる。

諏訪は〝今日の宗教界の一凶とは権力・財力をほしいままにして三宝破壊、
三徳背反の学会こそ、現在の一凶である〟と「一凶」を繰り返して力説。「こ
こから一切の不幸と混迷が起こった」と見当違いの誹謗を続けて〝八十万法華
講の構築という命題達成に向かうことが肝要である〟と訴え、学会員を脱会さ
せるよう煽っていた。

笑止千万な布教講演だ。まず、改竄したテープで学会に難癖を付け、話し合
いにも応じることなく「権力をほしいまま」にして純真な一千万信徒を一方的
に切ったのは日顕である。

また、三宝破壊、三徳背反との学会批判も大間違い。三宝破壊、三徳背反は
日蓮正宗だ。仏法僧の三宝を攪乱して法主本仏論を強調し、主師親三徳の日蓮
大聖人を「迹仏」、現代の法主(当時は日顕)を「本仏」だと吹聴させた極悪坊
主は日顕自身だった。この日蓮正宗こそ「現代の一凶」と断ずる。

この〝ニセ本仏〟の謗法坊主・日顕は今月十九日に九十六歳の誕生日を迎え
るが、寄る年波と謗法の罪業には勝てず、最近は体調が悪く、無理して久しぶ
りにお会式に出かけたものの、直ぐに下山したという。

次に、「大白法」十一月十六日付の「諸宗教破折」欄で「謗法与同を恐れよ」
と題してクリスマスについて記している。その中で「毎年十二月になると街は
クリスマス一色になる。各地でツリーが並び、きらびやかなイルミネーション
が飾られ…」と書き、これはキリスト教の宗教行事で「けっして見過ごすこと
のできない謗法の所業」「クリスマスを容認する何らかの行動があるとすれば、
それは知らず知らずのうちに謗法に荷担している」と。

「大白法」編集部は日蓮正宗の僧俗が「御隠尊猊下」と呼ぶ日顕の行動を知
らないようだ。

クリスマスツリーを見学して、そこで記念撮影した坊主は「クリスマスを容
認」しており「見過ごすことのできない謗法の所業」ではないのか?

その坊主こそ相承詐称の日顕である。昭和五十九年、アメリカ・ニューヨーク
で、ミンクの毛皮コートで着飾った政子とロックフェラーセンターに出かけた
日顕は、巨大なクリスマスツ リーを見学。その前で夫婦仲良く笑顔で記念写
真に納まって、悦に入っていた
 

日顕消臭破折

 投稿者:マスコミが読み解いた日顕消宗の実態  投稿日:2017年12月11日(月)10時50分7秒
返信・引用
  日蓮正宗の名称は要法寺の案を盗用
第百回忌を迎える五五世日布の謗法行為
日布が国柱会の幹部らと御開扉、挨拶も

日蓮正宗の機関紙「大白法」十二月一日付で大石寺第五十五世日布の「第百
回遠忌(平成二十九年三日・四日)を迎えるに当たって」という記事を掲載して
いる。日布の死は大正八年だから「大白法」の見出しの「平成二十九年」は間
違い。正しくは平成三十年である。

 同紙は日布の事績を紹介する中で独立への軌跡を書いている。明治五年に日
蓮各派は「日蓮宗」として統合され、同七年に「勝劣派」、同九年二月に大石
寺一派は京都要法寺や保田妙本寺などと共に「日蓮宗興門派」として括(くく)
られ、その後、日布(写真)が分離独立を内務省に願い出たが認可されなかった。

同三十二年に日蓮宗興門派は「本門宗」に改称。翌年九月には分離独立が認
められて「日蓮宗富士派」と公称し、同四十五年に富士派から今の「日蓮正宗」
に改称するに至ったことを述べている。従って、現在の日蓮正宗になってから
は僅か百五年に過ぎない。

しかも、日蓮正宗という名称は京都要法寺の僧が考えたものである。明治十
一年、日蓮宗興門派が改称を検討することになり、興門諸山から意見を集めた
際、要法寺が日蓮正宗という名称案を出してきた。

因みに他の案は本門正宗(蓮山)、本門宗(遠山、豆山、房山)、日蓮本門宗(西
山)で、大石寺だけは現状の日蓮宗興門派の案であった。そのため「大石寺の
如きは現状維持説を答え多数説を敢えて否むものに非ずと首鼠両端の態度に出
づ」と、ぐずぐずして、決めかねていたと記されている。

要法寺の案を盗用しておきながら今では坊主も法華講員も「唯一の正系門下
だから日蓮正宗と公称している」等と自慢する厚顔無恥な邪教団である。

「慧妙」が宗門の
見解と反対の我見

ところで、日布は国柱会幹部や未入信の宗教学者らと共に御開扉。終わった
後、日布は「各々ヨウコソの御登山、佛祖三寶も御滿悦のことゝ存ずる。……
各々が無始以来の罪障消滅現當二世の所願滿足と厚く御祈念申上げました。南
無妙法蓮華經」(「大日蓮」昭和十年三月号)と挨拶した。

かつて、この日布の謗法行為を学会側が指摘すると「慧妙」は次のような邪
見を書いていた。「謗法者の御堂への参詣自体を禁じてはおられない」「戒壇
の大御本尊が広宣流布の時至るまで秘蔵の形をとり公開されていないのは、い
まだに邪宗・謗法の者多く、それらの者の手から大御本尊を厳護申し上げるた
めであって、何も謗法者に拝ませてはならないから、という訳ではない」(「
慧妙」平成五年十一月一日付)

この「慧妙」の出鱈目な我見を当時の宗門の法義研鑚委員会(委員長は大村
壽顕)が一刀両断した。

同委員会は宗内教師各位への「通知」として「一閻浮提総与の御本尊といっ
ても邪宗邪義の輩に礼拝を許すわけがない。これは宗祖大聖人の御教示であり、
宗門七百年の鉄則である」と。

 一事が万事、低劣なウソを書くのが「慧妙」なのだ。
 

創価学会破折

 投稿者:マスコミが読み解いた創価学会の実態  投稿日:2017年12月 9日(土)19時33分53秒
返信・引用
   十月二十七日、東京都渋谷区の富士学林大学科(法教院)において、大学科生
を対象とした本年度の課外授業「創価学会破折」が開催された。

 本年度は教学部副部長の宮野審道富士学林教授より、昼夜二回、各八十分に
わたって授業が行われた。

 授業は、先に発刊された『大御本尊への信仰を捨てた創価学会をただす』を
もとに、創価学会問題の経緯が述べられ、また御書や『六巻抄』の御文のほか、
これまでの創価学会の主張の変遷などを挙げて、創価学会の邪義を徹底的に破
折した。

 さらに、同書の年表を用いて、創価学会の矛盾点について詳細に説明された。
そのなかで「創価学会は御法主上人を師匠とせず、会員間で師弟関係を作った
ために、昭和五十二年路線をはじめとする諸問題を起こした。

 さらに御本尊を軽視して『二セ本尊』まで作製し、最終的に戒壇の大御本尊
への信仰を否定するという大謗法団体と化してしまった。

 正しい信仰を失った創価学会を、私達一人ひとりが正法信受の立場からしっ
かりと破折しなければ、学会の邪義は滅びない。

 私達は、御法主上人の御指南をしっかりと拝し、一人でも多くの創価学会員
を折伏するために、より多くの知識を蓄えることが大事である」旨が指導され
た。

 今回の授業を受けた大学科生は、創価学会の邪義破折への決意と情熱を、さ
らに確固たるものとした様子であった。

 

禿げ如ゲイカの求心力・統率力の減退が明らか

 投稿者:マスコミが読み解いた日顕消宗の実態  投稿日:2017年12月 4日(月)09時58分24秒
返信・引用
  大石寺派(すでに広宣流布からリタイアしたので最近は退席痔派とも呼びます)では、自分たちの唯一のアイデンティティとして戒壇の大御本尊を主張しますし、大聖人の御書のとおりに実践していない老衰した自己中心の脱会者が、自分は大御本尊のある方がいいから日犬は悪でも仕方ない、と半泣きで侘びていたりもします。
しかし、貫主であった日顕自身が、戒壇の大御本尊についての真実を示唆する講釈を垂れたことで、いよいよ真実の大聖人の教えが明らかにされる「時」が来たと確信しています。
戒壇の大御本尊という立派な彫刻本尊が、実は大聖人御在世の建立ではないという証拠をたくさん示して、真実の大聖人の仏法について思索する契機としてみましょう。
 なお、それぞれの主張に根拠となる画像ファイルがたくさんあるのですが、ここでは省略させていただきます。

◎日顕が河辺メモでばらした戒壇の大御本尊偽物説の間違い

宗門でも有名な河辺メモは、かつての学会と宗門との連絡会議の学会側の記録と比較するとほとんど表現が一致していること等の実績から、その正確さについては知る人ぞ知る、という記録文書です。
その河辺メモで暴露された昭和53年2月7日付けの阿部教学部長(当時)と帝国ホテルでの会話の内容は、

「S53・3・7、A面談(注:当時阿部教学部長)・帝国H
一、 戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(写真判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。」

というものです。この河辺慈篤(故人)のメモに記載されている内容で重要な点は、
「法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」
の個所です。
 阿部の見解は、戒壇の大御本尊とは弘安3年5月9日に顕わされて日禅に授与された本尊を「籠抜き」と称する手法(御本尊に和紙を当てて、題目を書き写し、次にその和紙を木の板に当てて板に刻むという本尊の作成方法)で彫刻したもので、日時師か日有師の頃の筆だというものです。
 最も確実な確認の方法は、毎年の虫払い法要の際に公開される日禅授与本尊について、実際にどのように籠抜きをした形跡が残っているかを確認すれば良いのでしょうが、宗旨が根本からひっくり返るので、絶対に宗門はそれを認めるはずはないし、聞いても頭から無視し否定するしか道がない。邪宗門の言い訳文書を見ると、

「日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆本尊について(むろん日禅授与本尊も同様)写真撮影や鑑定調査を許していない。」

と、とにかく頭から否定してかかるしか逃れる道が無いことを自覚しているようです。
 しかし、情報化社会の中で、すでに多様な情報が共有されているのですから、阿部の主張を基礎に、そうした公開された情報を参考にして、一つずつ事実確認をすることで、戒壇の大御本尊の真実に迫ることとしましょう。また、邪宗門に対しては、

① 日禅授与本尊に籠抜きをした形跡が残っているかを確認せよ
② 戒壇の大御本尊をわずか数mg削って、AMS法で炭素14を分析せよ

 それによって事実を示せないならば、以下の根拠に基づき、戒壇の大御本尊とは大聖人滅後に日禅授与本尊を模刻したものだと断定するぞ!と責め続けましょう!
 学会総体としても、現時点では従来の宗旨を否定していないようですが、それは大聖人の言葉である

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

に基づいているからで、上記①、②によって完璧に証拠を確認出来たら、いよいよ教義体系を根本から正すことになるのでしょう。


◎戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々

(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い(是1)

 堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の退席寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げかけておられるのです。

「御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」
「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」
「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」
「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」

等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念(日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持していたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。
 要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、というのが堀上人の結論なのです。


(2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しか記載されていない(是2)

 大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、(1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入りの連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、
「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、

「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213)

と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。
 この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、

「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」

と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で板本尊は存在しなかったという証拠の一つです。


(3)戒壇の大御本尊の主題と日禅授与本尊の主題は極めて高い一致(是3)

 大聖人の御真筆本尊は、約140体が現存しており、いくつかを除いて立正安国会がそれらを「御本尊集」として公開しています。これらの御本尊の主題(題目)はデータベースになり、最新のコンピュータ・マッチングという手法でその類似性を確認することが可能です。
 また、戒壇の大御本尊については今まで写真が公開されていたのは熊田葦城著「日蓮聖人」という文献のみで、非常に不鮮明なものであったため、写真鑑定が出来るような状況ではありませんでした。しかし、邪宗門が奉安堂と称する安普請の建屋に御本尊を移転した際に、ある法華講がごく近接した間近な距離で撮影したようで、静岡在住の金原氏が入手したその写真と、日禅授与本尊の写真とをデータとしてパソコンに取り込み、比較をしたのです。
 その結果は驚くべきもので、他の約140体も含めて、御本尊の主題のサイズと形状(とくにヒゲと呼ばれる文字の撥ね方)は、それぞれが大きく異なっているため、当然のことですが一致するようなものは存在しません。
 ところが、日禅授与本尊と戒壇の大御本尊のみについては、御本尊全体のサイズは全く異なるにも拘わらず、題目のサイズと形状の一致度が極めて高いことが判明したのです。この事実は、阿部が主張した「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、(中略)日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」との見解を見事に確認し、証明するものです。
 阿部の息子のシンショウなどは、「そんな昔に、題目を一定の比率で拡大する技術など無かった」と間の抜けた反論をしようとしていたのですが、拡大などではなく、全く同じサイズの主題なのです。そのことを指摘されると、「私は教学は苦手で」「私の信仰だ」と、教学が無いのでシンショウは、大御本尊のことを「鰯の頭」と同じレベルで信じ込んでいることを自ら暴露したのです。お粗末な邪宗門です。


(4)戒壇の大御本尊の座配と日禅授与本尊の座配は完全に一致(是4)

 大聖人の御本尊を比較すれば、十界の座配はほとんどが異なっています。
 例えば、初期の10体ほどの真筆御本尊には、釈迦・多宝の二仏しか書かれておらず、全部が仏界のみです。
 この事実ひとつを見ても、邪宗門が学会の日寛上人の形木本尊を誹謗するに際し、最初の頃には「十界が全部書かれていないからニセ本尊だ」などと真っ赤なウソをついたのが、明らかです。彼らは単に「学会員の信心を破壊するためにならばどんなウソでもついてやる」という天魔の立場であることが理解できます。学会員から破折され、赤恥を晒してすぐに引っ込めたようですが。
 戒壇の大御本尊と日禅授与本尊の座配を比較すると、阿部が指摘したとおり日禅授与本尊を模写したのであれば当然のことですが、十界のすべての表現と共に「仏滅度後二千二百二十余年」までが全く同じ内容なのです。
 そして、「腰書き」と称する御本尊の下部に書き加えられたと考えられる部分に「弘安二年十月十二日」が存在するのです。
 これは、完全な模刻本尊だということです。戒壇の大御本尊とは、日禅授与本尊を大聖人の滅後に模刻したものだという見事な証拠です。


(5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
 これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者の書き方です。
130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は非常に明確な変遷があります。

① 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」
② 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」
③ 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」

 戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。
 そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊には記載されているのです。
 ここでもまた日顕が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。


(6)日興上人が書写された多数の御本尊は日禅授与本尊以外の御本尊を書写している(是6)

 歴代法主は常住本尊を書写するに際して「書写之」と書きますが、この「之」とは「戒壇の大御本尊」という主張が、以前は退席寺派ではまことしやかに流されていました。
 しかし、日興上人が「書写之」として書き残されたたくさんの御本尊の中に、この戒壇の大御本尊と同じ座配のものがどれほどあるかをいくつも調べてみましたが、少なくとも私が調べた範囲では見当たらないのです。数百もの日興上人の真筆御本尊の中には、日禅授与本尊を書写したものは存在するのかもしれませんが、大聖人の御本尊の重要性を熟知し、五老僧の本尊不敬を厳しく批判されておられた厳格な日興上人が、もしも血脈相伝の根本中の根本と称する「一大秘法」の戒壇の大御本尊という教義の根本が現実に存在したのであれば、それを無視して、他の大聖人の御本尊を書写するとはどういうことでしょうか?
 要するにこのことも、日興上人の御存命の頃には、そのような戒壇の大御本尊と称する「一大秘法」は存在していなかったということの傍証なのです。


(7)歴史上初めて板本尊の記録が残るのは、大聖人滅後約280年も経った1561年の保田妙本寺日我の文書(是7)

 すでに指摘したとおり、大聖人の出世の本懐とされた戒壇の大御本尊の存在は、日興上人が身延から富士に移られた際の宝物の中にも、その後の日興上人御在世中の文献にも何一つその記録は残っていません。
 板本尊という教義上特別に重要なはずの存在が、歴史上最初の記録として文献に現れるのは、大石寺派ではなく、4世日道と決別した日郷が開いた寺である千葉県の保田妙本寺出身の、日我という学僧が書き残した「観心本尊抄抜書」なのです。

「書写の本尊に現文あり、造立の仏に現証あり。久遠寺の板本尊今大石寺に在り大聖御存日の時の造立なり、池上の削りかけの御影、御入滅あるべきその九十月に造らせられるなり、一体の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に立て置くべく候」(富要-171)

 しかもその時期は、大聖人滅後ほぼ280年もの時間が流れているのです。現代との時間の隔たりで言えば、江戸時代の中頃ぐらいです。
 大聖人の出世の本懐というものがもしも最初から存在していたら、300年近くも歴史の表面に記録が残らないはずがありません。大聖人滅後にそっと模刻して、しばらく保管していたのです。


(8)大石寺派の文献で最初に板本尊の記録が残るのは、1573年以降の日主の文書(是8)

 歴史上初めて板本尊に関する記載が大石寺派の文献に現れたのは、大聖人滅後300年ほども経った、1580年頃に書かれた14世日主の「日興跡條々事示書」が最初のことです。
 そして、それ以降は頻繁に記録が残されているのです。300年にわたって、その存在すら誰も記録に残さないような重大な「宗祖の出世の本懐」が存在するなどということなど考えられるでしょうか。


◎改竄がなされた「日興跡條々事」ではなく、その草本が公開された

 現存する「日興跡條々事」は明らかな改竄が見受けられますが、堀上人が富士宗学要集8巻17ページに記載しているように、
「正本案文共に総本山に現存す」
と記された「案文」が「日蓮と本尊伝承」(水声社 金原明彦)で公開されました。その内容は、
「日興カ当身弘安弐年所給大本尊」
と、日興上人に弘安2年に給わったところの大本尊、ということが記録されているのです。
 つまり、大聖人から日興上人に継承されたのは、「弘安2年の大御本尊」ではなく、大聖人から日興上人に「弘安2年に与えられた」「大本尊」ということなのである。これに該当するものとしては、例えば万年救護本尊は大聖人から日興上人に弘安2年に与えられ、その授与書きには御真筆本尊で唯一「大本尊」という表現が記されているのです。
 そのためか、次項に記載するとおり、唯授一人の血脈相承を受けた歴代の中に万年救護本尊を根本とする見解を持った法主も存在したのです。


(9)大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)

 堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、

「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是
万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」
(通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。)

と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、

「板本尊の事也、今当山に在る也」

と改竄している記録が残されているのです。
 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、

「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」
(通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。)

と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、
「宗門から学会を取ったら何も残らない」
「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」
と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。


 以上のことを総括すれば、阿部は河辺に対して「偽物である」と言ったようですが、これは間違いで、戒壇の大御本尊は事実として立派な模刻本尊なのです。ただ、弘安2年10月の建立などではなく、弘安3年5月の日禅授与本尊を模刻して、(日犬の分析が正しければ)大聖人滅後100年以上経ってから建立されたものなのです。
 あとは、日善授与本尊に模写の形跡があることを確認し、戒壇の大御本尊の炭素14(放射性同位体)を精密に分析して、科学的な証拠を確認すれば、大石寺派の宗旨は根本的に転覆し、いよいよ創価学会も天下晴れて大聖人の言葉(御書)を根本にして、第三の千年の全人類のための教義体系へと再構築をすることになるのです。

 以上の事実を知ってもなお「戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐だと信じる」と、証拠も示せずに幻想にしがみつく方は、「イワシの頭を信じているんだが何か文句あるか」と開き直る原始人と何ら変わりの無い狂信、邪教の信者と言うことが出来ます。
 大聖人が御書で示されている原理を確認してみましょう。

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

 つまり、証拠を示せない主張は邪教だと大聖人は断定されているのです。やはり大石寺派は邪教だったのです 大石寺派(すでに広宣流布からリタイアしたので最近は退席痔派とも呼びます)では、自分たちの唯一のアイデンティティとして戒壇の大御本尊を主張しますし、大聖人の御書のとおりに実践していない老衰した自己中心の脱会者が、自分は大御本尊のある方がいいから日犬は悪でも仕方ない、と半泣きで侘びていたりもします。
しかし、貫主であった日顕自身が、戒壇の大御本尊についての真実を示唆する講釈を垂れたことで、いよいよ真実の大聖人の教えが明らかにされる「時」が来たと確信しています。
戒壇の大御本尊という立派な彫刻本尊が、実は大聖人御在世の建立ではないという証拠をたくさん示して、真実の大聖人の仏法について思索する契機としてみましょう。
 なお、それぞれの主張に根拠となる画像ファイルがたくさんあるのですが、ここでは省略させていただきます。

◎日顕が河辺メモでばらした戒壇の大御本尊偽物説の間違い

宗門でも有名な河辺メモは、かつての学会と宗門との連絡会議の学会側の記録と比較するとほとんど表現が一致していること等の実績から、その正確さについては知る人ぞ知る、という記録文書です。
その河辺メモで暴露された昭和53年2月7日付けの阿部教学部長(当時)と帝国ホテルでの会話の内容は、

「S53・3・7、A面談(注:当時阿部教学部長)・帝国H
一、 戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(写真判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。」

というものです。この河辺慈篤(故人)のメモに記載されている内容で重要な点は、
「法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」
の個所です。
 阿部の見解は、戒壇の大御本尊とは弘安3年5月9日に顕わされて日禅に授与された本尊を「籠抜き」と称する手法(御本尊に和紙を当てて、題目を書き写し、次にその和紙を木の板に当てて板に刻むという本尊の作成方法)で彫刻したもので、日時師か日有師の頃の筆だというものです。
 最も確実な確認の方法は、毎年の虫払い法要の際に公開される日禅授与本尊について、実際にどのように籠抜きをした形跡が残っているかを確認すれば良いのでしょうが、宗旨が根本からひっくり返るので、絶対に宗門はそれを認めるはずはないし、聞いても頭から無視し否定するしか道がない。邪宗門の言い訳文書を見ると、

「日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆本尊について(むろん日禅授与本尊も同様)写真撮影や鑑定調査を許していない。」

と、とにかく頭から否定してかかるしか逃れる道が無いことを自覚しているようです。
 しかし、情報化社会の中で、すでに多様な情報が共有されているのですから、阿部の主張を基礎に、そうした公開された情報を参考にして、一つずつ事実確認をすることで、戒壇の大御本尊の真実に迫ることとしましょう。また、邪宗門に対しては、

① 日禅授与本尊に籠抜きをした形跡が残っているかを確認せよ
② 戒壇の大御本尊をわずか数mg削って、AMS法で炭素14を分析せよ

 それによって事実を示せないならば、以下の根拠に基づき、戒壇の大御本尊とは大聖人滅後に日禅授与本尊を模刻したものだと断定するぞ!と責め続けましょう!
 学会総体としても、現時点では従来の宗旨を否定していないようですが、それは大聖人の言葉である

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

に基づいているからで、上記①、②によって完璧に証拠を確認出来たら、いよいよ教義体系を根本から正すことになるのでしょう。


◎戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々

(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い(是1)

 堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の退席寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げかけておられるのです。

「御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」
「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」
「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」
「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」

等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念(日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持していたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。
 要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、というのが堀上人の結論なのです。


(2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しか記載されていない(是2)

 大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、(1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入りの連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、
「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、

「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213)

と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。
 この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、

「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」

と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で板本尊は存在しなかったという証拠の一つです。


(3)戒壇の大御本尊の主題と日禅授与本尊の主題は極めて高い一致(是3)

 大聖人の御真筆本尊は、約140体が現存しており、いくつかを除いて立正安国会がそれらを「御本尊集」として公開しています。これらの御本尊の主題(題目)はデータベースになり、最新のコンピュータ・マッチングという手法でその類似性を確認することが可能です。
 また、戒壇の大御本尊については今まで写真が公開されていたのは熊田葦城著「日蓮聖人」という文献のみで、非常に不鮮明なものであったため、写真鑑定が出来るような状況ではありませんでした。しかし、邪宗門が奉安堂と称する安普請の建屋に御本尊を移転した際に、ある法華講がごく近接した間近な距離で撮影したようで、静岡在住の金原氏が入手したその写真と、日禅授与本尊の写真とをデータとしてパソコンに取り込み、比較をしたのです。
 その結果は驚くべきもので、他の約140体も含めて、御本尊の主題のサイズと形状(とくにヒゲと呼ばれる文字の撥ね方)は、それぞれが大きく異なっているため、当然のことですが一致するようなものは存在しません。
 ところが、日禅授与本尊と戒壇の大御本尊のみについては、御本尊全体のサイズは全く異なるにも拘わらず、題目のサイズと形状の一致度が極めて高いことが判明したのです。この事実は、阿部が主張した「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、(中略)日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」との見解を見事に確認し、証明するものです。
 阿部の息子のシンショウなどは、「そんな昔に、題目を一定の比率で拡大する技術など無かった」と間の抜けた反論をしようとしていたのですが、拡大などではなく、全く同じサイズの主題なのです。そのことを指摘されると、「私は教学は苦手で」「私の信仰だ」と、教学が無いのでシンショウは、大御本尊のことを「鰯の頭」と同じレベルで信じ込んでいることを自ら暴露したのです。お粗末な邪宗門です。


(4)戒壇の大御本尊の座配と日禅授与本尊の座配は完全に一致(是4)

 大聖人の御本尊を比較すれば、十界の座配はほとんどが異なっています。
 例えば、初期の10体ほどの真筆御本尊には、釈迦・多宝の二仏しか書かれておらず、全部が仏界のみです。
 この事実ひとつを見ても、邪宗門が学会の日寛上人の形木本尊を誹謗するに際し、最初の頃には「十界が全部書かれていないからニセ本尊だ」などと真っ赤なウソをついたのが、明らかです。彼らは単に「学会員の信心を破壊するためにならばどんなウソでもついてやる」という天魔の立場であることが理解できます。学会員から破折され、赤恥を晒してすぐに引っ込めたようですが。
 戒壇の大御本尊と日禅授与本尊の座配を比較すると、阿部が指摘したとおり日禅授与本尊を模写したのであれば当然のことですが、十界のすべての表現と共に「仏滅度後二千二百二十余年」までが全く同じ内容なのです。
 そして、「腰書き」と称する御本尊の下部に書き加えられたと考えられる部分に「弘安二年十月十二日」が存在するのです。
 これは、完全な模刻本尊だということです。戒壇の大御本尊とは、日禅授与本尊を大聖人の滅後に模刻したものだという見事な証拠です。


(5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
 これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者の書き方です。
130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は非常に明確な変遷があります。

① 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」
② 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」
③ 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」

 戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。
 そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊には記載されているのです。
 ここでもまた日顕が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。


(6)日興上人が書写された多数の御本尊は日禅授与本尊以外の御本尊を書写している(是6)

 歴代法主は常住本尊を書写するに際して「書写之」と書きますが、この「之」とは「戒壇の大御本尊」という主張が、以前は退席寺派ではまことしやかに流されていました。
 しかし、日興上人が「書写之」として書き残されたたくさんの御本尊の中に、この戒壇の大御本尊と同じ座配のものがどれほどあるかをいくつも調べてみましたが、少なくとも私が調べた範囲では見当たらないのです。数百もの日興上人の真筆御本尊の中には、日禅授与本尊を書写したものは存在するのかもしれませんが、大聖人の御本尊の重要性を熟知し、五老僧の本尊不敬を厳しく批判されておられた厳格な日興上人が、もしも血脈相伝の根本中の根本と称する「一大秘法」の戒壇の大御本尊という教義の根本が現実に存在したのであれば、それを無視して、他の大聖人の御本尊を書写するとはどういうことでしょうか?
 要するにこのことも、日興上人の御存命の頃には、そのような戒壇の大御本尊と称する「一大秘法」は存在していなかったということの傍証なのです。


(7)歴史上初めて板本尊の記録が残るのは、大聖人滅後約280年も経った1561年の保田妙本寺日我の文書(是7)

 すでに指摘したとおり、大聖人の出世の本懐とされた戒壇の大御本尊の存在は、日興上人が身延から富士に移られた際の宝物の中にも、その後の日興上人御在世中の文献にも何一つその記録は残っていません。
 板本尊という教義上特別に重要なはずの存在が、歴史上最初の記録として文献に現れるのは、大石寺派ではなく、4世日道と決別した日郷が開いた寺である千葉県の保田妙本寺出身の、日我という学僧が書き残した「観心本尊抄抜書」なのです。

「書写の本尊に現文あり、造立の仏に現証あり。久遠寺の板本尊今大石寺に在り大聖御存日の時の造立なり、池上の削りかけの御影、御入滅あるべきその九十月に造らせられるなり、一体の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に立て置くべく候」(富要-171)

 しかもその時期は、大聖人滅後ほぼ280年もの時間が流れているのです。現代との時間の隔たりで言えば、江戸時代の中頃ぐらいです。
 大聖人の出世の本懐というものがもしも最初から存在していたら、300年近くも歴史の表面に記録が残らないはずがありません。大聖人滅後にそっと模刻して、しばらく保管していたのです。


(8)大石寺派の文献で最初に板本尊の記録が残るのは、1573年以降の日主の文書(是8)

 歴史上初めて板本尊に関する記載が大石寺派の文献に現れたのは、大聖人滅後300年ほども経った、1580年頃に書かれた14世日主の「日興跡條々事示書」が最初のことです。
 そして、それ以降は頻繁に記録が残されているのです。300年にわたって、その存在すら誰も記録に残さないような重大な「宗祖の出世の本懐」が存在するなどということなど考えられるでしょうか。


◎改竄がなされた「日興跡條々事」ではなく、その草本が公開された

 現存する「日興跡條々事」は明らかな改竄が見受けられますが、堀上人が富士宗学要集8巻17ページに記載しているように、
「正本案文共に総本山に現存す」
と記された「案文」が「日蓮と本尊伝承」(水声社 金原明彦)で公開されました。その内容は、
「日興カ当身弘安弐年所給大本尊」
と、日興上人に弘安2年に給わったところの大本尊、ということが記録されているのです。
 つまり、大聖人から日興上人に継承されたのは、「弘安2年の大御本尊」ではなく、大聖人から日興上人に「弘安2年に与えられた」「大本尊」ということなのである。これに該当するものとしては、例えば万年救護本尊は大聖人から日興上人に弘安2年に与えられ、その授与書きには御真筆本尊で唯一「大本尊」という表現が記されているのです。
 そのためか、次項に記載するとおり、唯授一人の血脈相承を受けた歴代の中に万年救護本尊を根本とする見解を持った法主も存在したのです。


(9)大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)

 堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、

「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是
万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」
(通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。)

と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、

「板本尊の事也、今当山に在る也」

と改竄している記録が残されているのです。
 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、

「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」
(通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。)

と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、
「宗門から学会を取ったら何も残らない」
「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」
と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。


 以上のことを総括すれば、阿部は河辺に対して「偽物である」と言ったようですが、これは間違いで、戒壇の大御本尊は事実として立派な模刻本尊なのです。ただ、弘安2年10月の建立などではなく、弘安3年5月の日禅授与本尊を模刻して、(日犬の分析が正しければ)大聖人滅後100年以上経ってから建立されたものなのです。
 あとは、日善授与本尊に模写の形跡があることを確認し、戒壇の大御本尊の炭素14(放射性同位体)を精密に分析して、科学的な証拠を確認すれば、大石寺派の宗旨は根本的に転覆し、いよいよ創価学会も天下晴れて大聖人の言葉(御書)を根本にして、第三の千年の全人類のための教義体系へと再構築をすることになるのです。

 以上の事実を知ってもなお「戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐だと信じる」と、証拠も示せずに幻想にしがみつく方は、「イワシの頭を信じているんだが何か文句あるか」と開き直る原始人と何ら変わりの無い狂信、邪教の信者と言うことが出来ます。
 大聖人が御書で示されている原理を確認してみましょう。

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

 つまり、証拠を示せない主張は邪教だと大聖人は断定されているのです。やはり大石寺派は邪教だったのです

 

学会の求心力・統率力の減退が明らか

 投稿者:マスコミが読み解いた創価学会の実態  投稿日:2017年12月 1日(金)22時16分31秒
返信・引用
   公明党は、十月二十二日の衆議院総選挙において大敗した。『公明新聞』で
は、「当選相次ぐ」と大見出しを出したものの、実際には、前回の三十四議席
から五議席減らして二十九議席となり、比例区の得票数も二〇〇七年以降減り
続け、今回は六百九十七万票となって、とうとう七百万票を下回ったのである。

 さらに、公明党の候補者が出馬した選挙区では無効投票率が全国平均と比べ
突出して高い、と『日刊ゲンダイ』(十月二十九日付)が報じた。

 『日刊ゲンダイ』によると、〈10・22総選挙で公示前の34議席から5議席減
らし、比例代表では2000年以降の衆参両院選を通じてはじめて700万票を割っ
た公明党。

 公明候補が出馬した小選挙区の無効投票率が、全国平均と比べ突出して高い
ことが分かつた。総務省が発表した全国の無効投票率は2.68%。公明が候補を
立てた9選挙区の平均は7.00%だった。

 都道府県の選挙管理委員会がまとめた無効投票率をもとに日刊ゲンダイが集
計した。最も高いのは、大阪3区の10.22%。自公連立の象徴で、太田昭宏元代
表が当選した東京12区も、9.71%が無効票だ。〉

 このように、全国の無効投票率は2.68%であるのに対し、公明候補が出馬し
た9選挙区の平均は7.00%と、全国平均と比べかなり高いことがわかる。

 また、学会において「常勝関西」といわれる大阪では10.22%と多くの無効票
が投じられている。

 では、なぜ無効票が多いのか。『日刊ゲンダイ』では現役の学会員の言葉を
挙げ、次のように述べている。

 〈「学会員はちゃんと投票に行ったかフォローされるので、必ず投票所に足
を運びます。公明党への批判の意味で、無効票を投じる学会員も少なくありま
せん。」(現役の創価学会員)公明候補の選挙区で無効票が多いのは、学会員の
公明への無言の抵抗であることは間違いない。

 平和、庶民の党はどこ吹く風。政権に居ることを何よりも最優先し、安保法
制、共謀罪に賛成し、森友問題では、当事者であるのに石井国交相は他人事だ。


 学会員は、投票に行かないと、後からいろいろ言われることになる。しかし、
平和を党是としながら、政権にしがみつきたい一心で、安保法制、共謀罪に賛
成する公明党に、票を入れたくない学会員の無言の抵抗であろう。

 その結果が、七百万を下回り、五議席減という、大惨敗を喫した一つの理由
であろう。やはり、二年前の安保法案に賛成したことは、そうとう学会員の反
感を買ったようだ。

 『日刊ゲンダイ』(十月十九日付)の記事に、〈創価学会員の一部が公明党に
ソッポを向いているという。ある学会員が語る。「流れが大きく変わったのは
2年前の安保関連法の成立直前です。『創価大学有志の会』の反対署名は1300
人以上に膨れ上がりました。その後、サイト発起人に対する嫌がらせなどで"
沈静化"したかに見えますが、反対運動はゲリラ化し、全国に拡散。ネットな
どで反対運動が激しくなっています」〉とあるように、公明党への反対運動を
むりやり押し込めた反動が、今回の選挙で噴出したともいえよう。

 それにしても今回の選挙で、創価学会の求心力・統率力が著しく低下してき
ていることがわかる。

 さらに、十一月十八日に発効された「創価学会会憲」なるものによって、学会員
の心の拠り所である池田センセーが、現創価学会会長の原田の部下となった。

 これを学会員達が受け入れられるのか、といえば否であり、これによって、
学会員の創価学会離れ、公明党得票数低下が加速していくことは、もはや確実
であろう。

 

日顕消宗の宗教行事

 投稿者:謗法与同を恐れよ  投稿日:2017年11月14日(火)14時59分57秒
返信・引用
  宗門七百年の歴史を見て、すぐに思い浮かぶだけでも日目上人の死後、早く
も日道・日郷の長期にわたる抗争で大石寺は荒れ果て、その後も造仏読誦の十
七世日精、相承を受けずに御本尊を書写した十九世日舜、浅間神社に御本尊を
下付した三十三世日元、相承をしないまま遁走した五十三世日盛、国柱会の謗
法者に御開扉を許可して御礼まで述べた五十五世日布などの法主がいる。

本尊を誤写した日開

昭和以降も本尊を誤写した六十世日開(日顕の父)、妾狂いの六十一世日隆な
どの悪僧がいたが、特に仏法を破壊した六十二世日恭は相承詐称の日顕と同じ
く極悪僧である。

日恭は戦意高揚の「訓諭」を発したほか、御観念文の改変、御書の発刊禁止
と要文削除など軍部権力に迎合し、神札を受け、神道思想を宗内に広く浸透さ
せて伊勢神宮遙拝を「院達」で指示した大謗法の法主だ。

これら不祥事、謗法行為に加えて、第九世日有上人の時代には役僧が大石寺
を売却した事件があった。

この「大石寺の売却事件」は「有師物語聴聞抄佳跡・上」に記されており、
五十九世日亨上人も次のように述べていた。

「しょっ中、日有上人は全國を行脚してござったんだから、寺には相當の代
官がおいてあった。(中略)慶舜という人と日有上人が懇意で、ときどき行かれ
たらしいです。慶舜に會うたびに、日有上人は、大石寺の跡のことを次のよう
に話されたという。

つまり三人の代官をおいた。しかるに、三人の代官がグルになって、大石寺
を賈っちまったということが書いてある」 
 

キリスト教の宗教行事

 投稿者:謗法与同を恐れよ  投稿日:2017年11月13日(月)21時32分5秒
返信・引用
   昨今の日本人の宗教行事に対する軽率ぶりは、大いに憂慮すべきものがある。
その典型がクリスマスに表われている。

 毎年十二月になると、街はクリスマス一色になる。各地でツリーが並び、き
らびやかなイルミネーションが飾られ、様々なイベントが開催される。

 また、サンタクロースからのプレゼントを願ったり、ケーキを囲んで「メリ
ークリスマス!」などと声を上げたりすることが、すっかり定着してしまった
感がある。

 そもそもクリスマスとは「キリストのミサ」という意で、イエス・キリスト
が誕生したとされる十二月二十五日(ただし正確な誕生日は不明)に、キリスト
教徒が教会の儀式に参加し、キリストに感謝の祈りを捧げるという宗教行事。

 ちなみに、近年の欧米社会では「メリークリスマス(楽しいクリスマスを)」
との言葉は気軽に使用してはいけないらしい。

 その理由は、クリスマスが宗教行事である以上、キリスト教徒でない人々に
対して、キリスト教の祝い事を押し付けるのはよくないという考え方が広まっ
たからだという。

 それに比べて今の日本人はどうだろう。クリスマスを"楽しいイベント"ぐら
いにしか認識していない。物事の意味や本質を深く考えず、ただ"楽しいから"
とか"みんなやっているから"という理由で、お祭り騒ぎをして浮かれているだ
けである。

  金儲けの道具

 日本でクリスマスが庶民に広まり始めたのは明治に入ってからという。では、
どうしてこれほど浸透してしまったのか。その発端は"商売"のようだ。

 我が国においてクリスマスは、本来の宗教儀式の面よりも、楽しいイベント
として広められた。そこには金儲けを狙う、企業の巧みな宣伝があった。人々
はその思惑に乗せられて、様々な関連商品を購買する。

 さらに、過熱する年末商戦と相まってエスカレートし、今日の如き有り様と
なった。つまり日本のクリスマスは、企業の商業戦略に踊らされ蔓延してしま
った、悪しき産物と評することができよう。

 どんなに広く行われていても、粉れもなく宗教行事である。仏教の厳正なる
眼から見れば、けっして見過ごすことのできない、謗法の所業なのだ。たとえ
人々に宗教的な行事だとの意識がないにせよ、クリスマスを容認する何らかの
行動があるとすれば、それは知らず知らずのうちに、謗法に荷担していること
になる。

 与同罪恐るべし

 本宗信徒がクリスマスの諸行事に積極的に参加する道理はあり得ないが、問
題はここからだ。

 日蓮大聖人は『主君耳入此法門免与同罪事』に、「心は日蓮に同意なれども
身は別なれば、与同罪のがれがたきの御事に候」(御書七四四頁)と仰せである。

 クリスマスの悪弊に流される周囲の人々に対し、見て見ぬふりをしていない
だろうか。相手が謗法によって苦果を受けると知りながら、それを放置するこ
とは与同罪に当たる。

 大聖人は、また『曽谷殿御返事』に、「謗法を責めずして成仏を願はゞ、火
の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし」(同一〇四〇頁)

 と、折伏を行ずることで初めて与同罪を免れ、功徳を積んでいくことができ
ると御示しである。

 すなわち、正法を受持する我々は、クリスマスの本来の意味を知らず、知ら
ぬ間に謗法の害毒を受けている人々に、救いの手を差し伸べるべきなのだ。

 今回取り上げたクリスマスの行事に限らず、日本の人々はあまりにも宗教に
無知だと痛感することが多々ある。

 たとえ無知であっても、法を犯せば罰せられるように、知らなかったでは済
まされないのが謗法の怖さ。

 また、たとえ正しい信仰をしていたとしても、間違った宗教の行事に関われ
ば、功徳はおろか、かえって悪業を積むことになる。

 今こそ、宗教の正邪について語り、是非に迷う人々を折伏していく好機であ
る。

 

『法華講でなければ間違った信仰はできません』

 投稿者:出版  投稿日:2017年11月13日(月)09時36分34秒
返信・引用
  「連綿と続く血脈相伝」は幻想
日如の講習会での間違い講義を正す ㊦
相承詐称の日顕が「血脈の断絶」を明言

日蓮正宗・法華講が折伏に行き詰まって四苦八苦している。そのため、早瀬
日如が「思うに、今、私どもは、大聖人・日興上人以来、連綿と続く血脈相伝
に基づく正しい信心をしていることを心から喜ぶとともに、血脈を否定して完
全に異流義となった創価学会の謗法を破折し、多くの学会員を救っていかなけ
ればならないと痛感する次第であります」(「大日蓮」十一月号)と、学会員に
対する勧誘を煽っていた。

この「連綿と続く血脈相伝」とは史実とは全く違う、真っ赤なウソである。

実際は、第三祖日目上人の死後、早くも日郷と日道との間で長年にわたる激
しい抗争が続き、以来、約七百年の間には宗門が自慢するような「一器から一
器へ一滴の水も漏らさず」というものではなかった。

或る時は器から水が漏れ、または枯渇し、さまざまな軋轢(あつれき)も生じ
て大石寺が無住の期間もあった。

在家の者が相伝を取り次いだり、稚児法主の誕生とか、相承もしないで遁走
した法主などもいた。

更に、約百年間にもわたって京都・要法寺から法主を迎えて、大石寺が要法
寺流の邪義に染まってしまった時代もあった。

そして遂に大石寺の「唯授一人の血脈相承」が決定的に途絶えたのが、第六
十六世日達法主が相承をしないまま心筋梗塞で急死した昭和五十四年七月二十
二日である。

この日、阿部信雄(日顕)が相承詐称を思いついて、受けてもいない相承を平
気な顔で「相承に関する甚深の話を承った」旨、自己申告した。

だが、その証拠は何もなく、一人の証人もいない。ここで断絶した血脈は、
当然、日如には流れていない。

この相承詐称の日顕自身が法灯連綿を否定する「血脈断絶」が持論なのであ
る。

日顕が本行寺(東京都墨田区)の住職であった昭和三十三年、教区内の末寺の
御会式に向かう途中、同行の所化を誘って食堂に入り、これから御会式に参加
するというのにビールを飲みながら〝宗門の歴史の中には血脈が切れているこ
ともあるんだ〟等と発言したことがある。

その時の会話は次の通り。
日顕 お前は、血脈というものが切れたら、どうなると思う?
所化 いけないと思います。

日顕 君はそう思うか。そりゃ、しかし宗門の歴史の中には、そういうことが
あるんだよ。
所化 あるって言いますと……?

日顕 歴史の中には切れたような感じもあるんだよ。要は「内容」なんだ。血
脈が切れたって別段いいんだと俺はそう思うが、お前はどう思う?

この時、日顕の「血脈断絶論」を聞いたその所化は、余りの衝撃の大きさに
当時の状況を今も鮮明に記憶しているという。

日如の言う「大聖人・日興上人以来、連綿と続く血脈相伝」とは幻想による
作り話で、血脈は途切れていたというのが真相なのだ。

学会が邪宗門と決別した直後、当時の教学部長・大村寿顕(日統、故人)ら時
局文書作成班が「時局文書」を乱発して「血脈法水が断絶したならば日蓮正宗
が滅びる」と強弁していたように必ず滅びるに違いない。

 

『法華講でなければ正しい信仰はできません』

 投稿者:出版  投稿日:2017年11月 9日(木)18時10分34秒
返信・引用 編集済
  が大日蓮出版より発刊された。

本書は、既刊の『創価学会員への折伏教本』(宗務続編纂)のなかの「各論」
第七章の七から結びまでを抄録し、改題したものである。

創価学会員が法華講に対して感じている疑問や質問への明確な答えが示される
とともに、正法を持つ法華講員としての信仰の在り方についても学ぶことがで
きる好書となっている。

 

日蓮消臭の「大御本尊」って何?

 投稿者:とよだ  投稿日:2017年10月31日(火)09時54分26秒
返信・引用
  大石寺派(すでに広宣流布からリタイアしたので最近は退席痔派とも呼びます)では、自分たちの唯一のアイデンティティとして戒壇の大御本尊を主張しますし、大聖人の御書のとおりに実践していない老衰した自己中心の脱会者が、自分は大御本尊のある方がいいから日犬は悪でも仕方ない、と半泣きで侘びていたりもします。
しかし、貫主であった日顕自身が、戒壇の大御本尊についての真実を示唆する講釈を垂れたことで、いよいよ真実の大聖人の教えが明らかにされる「時」が来たと確信しています。
戒壇の大御本尊という立派な彫刻本尊が、実は大聖人御在世の建立ではないという証拠をたくさん示して、真実の大聖人の仏法について思索する契機としてみましょう。
 なお、それぞれの主張に根拠となる画像ファイルがたくさんあるのですが、ここでは省略させていただきます。

◎日顕が河辺メモでばらした戒壇の大御本尊偽物説の間違い

宗門でも有名な河辺メモは、かつての学会と宗門との連絡会議の学会側の記録と比較するとほとんど表現が一致していること等の実績から、その正確さについては知る人ぞ知る、という記録文書です。
その河辺メモで暴露された昭和53年2月7日付けの阿部教学部長(当時)と帝国ホテルでの会話の内容は、

「S53・3・7、A面談(注:当時阿部教学部長)・帝国H
一、 戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(写真判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。」

というものです。この河辺慈篤(故人)のメモに記載されている内容で重要な点は、
「法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」
の個所です。
 阿部の見解は、戒壇の大御本尊とは弘安3年5月9日に顕わされて日禅に授与された本尊を「籠抜き」と称する手法(御本尊に和紙を当てて、題目を書き写し、次にその和紙を木の板に当てて板に刻むという本尊の作成方法)で彫刻したもので、日時師か日有師の頃の筆だというものです。
 最も確実な確認の方法は、毎年の虫払い法要の際に公開される日禅授与本尊について、実際にどのように籠抜きをした形跡が残っているかを確認すれば良いのでしょうが、宗旨が根本からひっくり返るので、絶対に宗門はそれを認めるはずはないし、聞いても頭から無視し否定するしか道がない。邪宗門の言い訳文書を見ると、

「日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆本尊について(むろん日禅授与本尊も同様)写真撮影や鑑定調査を許していない。」

と、とにかく頭から否定してかかるしか逃れる道が無いことを自覚しているようです。
 しかし、情報化社会の中で、すでに多様な情報が共有されているのですから、阿部の主張を基礎に、そうした公開された情報を参考にして、一つずつ事実確認をすることで、戒壇の大御本尊の真実に迫ることとしましょう。また、邪宗門に対しては、

① 日禅授与本尊に籠抜きをした形跡が残っているかを確認せよ
② 戒壇の大御本尊をわずか数mg削って、AMS法で炭素14を分析せよ

 それによって事実を示せないならば、以下の根拠に基づき、戒壇の大御本尊とは大聖人滅後に日禅授与本尊を模刻したものだと断定するぞ!と責め続けましょう!
 学会総体としても、現時点では従来の宗旨を否定していないようですが、それは大聖人の言葉である

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

に基づいているからで、上記①、②によって完璧に証拠を確認出来たら、いよいよ教義体系を根本から正すことになるのでしょう。


◎戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々

(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い(是1)

 堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の退席寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げかけておられるのです。

「御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」
「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」
「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」
「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」

等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念(日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持していたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。
 要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、というのが堀上人の結論なのです。


(2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しか記載されていない(是2)

 大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、(1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入りの連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、
「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、

「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213)

と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。
 この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、

「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」

と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で板本尊は存在しなかったという証拠の一つです。


(3)戒壇の大御本尊の主題と日禅授与本尊の主題は極めて高い一致(是3)

 大聖人の御真筆本尊は、約140体が現存しており、いくつかを除いて立正安国会がそれらを「御本尊集」として公開しています。これらの御本尊の主題(題目)はデータベースになり、最新のコンピュータ・マッチングという手法でその類似性を確認することが可能です。
 また、戒壇の大御本尊については今まで写真が公開されていたのは熊田葦城著「日蓮聖人」という文献のみで、非常に不鮮明なものであったため、写真鑑定が出来るような状況ではありませんでした。しかし、邪宗門が奉安堂と称する安普請の建屋に御本尊を移転した際に、ある法華講がごく近接した間近な距離で撮影したようで、静岡在住の金原氏が入手したその写真と、日禅授与本尊の写真とをデータとしてパソコンに取り込み、比較をしたのです。
 その結果は驚くべきもので、他の約140体も含めて、御本尊の主題のサイズと形状(とくにヒゲと呼ばれる文字の撥ね方)は、それぞれが大きく異なっているため、当然のことですが一致するようなものは存在しません。
 ところが、日禅授与本尊と戒壇の大御本尊のみについては、御本尊全体のサイズは全く異なるにも拘わらず、題目のサイズと形状の一致度が極めて高いことが判明したのです。この事実は、阿部が主張した「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、(中略)日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」との見解を見事に確認し、証明するものです。
 阿部の息子のシンショウなどは、「そんな昔に、題目を一定の比率で拡大する技術など無かった」と間の抜けた反論をしようとしていたのですが、拡大などではなく、全く同じサイズの主題なのです。そのことを指摘されると、「私は教学は苦手で」「私の信仰だ」と、教学が無いのでシンショウは、大御本尊のことを「鰯の頭」と同じレベルで信じ込んでいることを自ら暴露したのです。お粗末な邪宗門です。


(4)戒壇の大御本尊の座配と日禅授与本尊の座配は完全に一致(是4)

 大聖人の御本尊を比較すれば、十界の座配はほとんどが異なっています。
 例えば、初期の10体ほどの真筆御本尊には、釈迦・多宝の二仏しか書かれておらず、全部が仏界のみです。
 この事実ひとつを見ても、邪宗門が学会の日寛上人の形木本尊を誹謗するに際し、最初の頃には「十界が全部書かれていないからニセ本尊だ」などと真っ赤なウソをついたのが、明らかです。彼らは単に「学会員の信心を破壊するためにならばどんなウソでもついてやる」という天魔の立場であることが理解できます。学会員から破折され、赤恥を晒してすぐに引っ込めたようですが。
 戒壇の大御本尊と日禅授与本尊の座配を比較すると、阿部が指摘したとおり日禅授与本尊を模写したのであれば当然のことですが、十界のすべての表現と共に「仏滅度後二千二百二十余年」までが全く同じ内容なのです。
 そして、「腰書き」と称する御本尊の下部に書き加えられたと考えられる部分に「弘安二年十月十二日」が存在するのです。
 これは、完全な模刻本尊だということです。戒壇の大御本尊とは、日禅授与本尊を大聖人の滅後に模刻したものだという見事な証拠です。


(5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
 これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者の書き方です。
130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は非常に明確な変遷があります。

① 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」
② 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」
③ 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」

 戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。
 そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊には記載されているのです。
 ここでもまた日顕が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。


(6)日興上人が書写された多数の御本尊は日禅授与本尊以外の御本尊を書写している(是6)

 歴代法主は常住本尊を書写するに際して「書写之」と書きますが、この「之」とは「戒壇の大御本尊」という主張が、以前は退席寺派ではまことしやかに流されていました。
 しかし、日興上人が「書写之」として書き残されたたくさんの御本尊の中に、この戒壇の大御本尊と同じ座配のものがどれほどあるかをいくつも調べてみましたが、少なくとも私が調べた範囲では見当たらないのです。数百もの日興上人の真筆御本尊の中には、日禅授与本尊を書写したものは存在するのかもしれませんが、大聖人の御本尊の重要性を熟知し、五老僧の本尊不敬を厳しく批判されておられた厳格な日興上人が、もしも血脈相伝の根本中の根本と称する「一大秘法」の戒壇の大御本尊という教義の根本が現実に存在したのであれば、それを無視して、他の大聖人の御本尊を書写するとはどういうことでしょうか?
 要するにこのことも、日興上人の御存命の頃には、そのような戒壇の大御本尊と称する「一大秘法」は存在していなかったということの傍証なのです。


(7)歴史上初めて板本尊の記録が残るのは、大聖人滅後約280年も経った1561年の保田妙本寺日我の文書(是7)

 すでに指摘したとおり、大聖人の出世の本懐とされた戒壇の大御本尊の存在は、日興上人が身延から富士に移られた際の宝物の中にも、その後の日興上人御在世中の文献にも何一つその記録は残っていません。
 板本尊という教義上特別に重要なはずの存在が、歴史上最初の記録として文献に現れるのは、大石寺派ではなく、4世日道と決別した日郷が開いた寺である千葉県の保田妙本寺出身の、日我という学僧が書き残した「観心本尊抄抜書」なのです。

「書写の本尊に現文あり、造立の仏に現証あり。久遠寺の板本尊今大石寺に在り大聖御存日の時の造立なり、池上の削りかけの御影、御入滅あるべきその九十月に造らせられるなり、一体の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に立て置くべく候」(富要-171)

 しかもその時期は、大聖人滅後ほぼ280年もの時間が流れているのです。現代との時間の隔たりで言えば、江戸時代の中頃ぐらいです。
 大聖人の出世の本懐というものがもしも最初から存在していたら、300年近くも歴史の表面に記録が残らないはずがありません。大聖人滅後にそっと模刻して、しばらく保管していたのです。


(8)大石寺派の文献で最初に板本尊の記録が残るのは、1573年以降の日主の文書(是8)

 歴史上初めて板本尊に関する記載が大石寺派の文献に現れたのは、大聖人滅後300年ほども経った、1580年頃に書かれた14世日主の「日興跡條々事示書」が最初のことです。
 そして、それ以降は頻繁に記録が残されているのです。300年にわたって、その存在すら誰も記録に残さないような重大な「宗祖の出世の本懐」が存在するなどということなど考えられるでしょうか。


◎改竄がなされた「日興跡條々事」ではなく、その草本が公開された

 現存する「日興跡條々事」は明らかな改竄が見受けられますが、堀上人が富士宗学要集8巻17ページに記載しているように、
「正本案文共に総本山に現存す」
と記された「案文」が「日蓮と本尊伝承」(水声社 金原明彦)で公開されました。その内容は、
「日興カ当身弘安弐年所給大本尊」
と、日興上人に弘安2年に給わったところの大本尊、ということが記録されているのです。
 つまり、大聖人から日興上人に継承されたのは、「弘安2年の大御本尊」ではなく、大聖人から日興上人に「弘安2年に与えられた」「大本尊」ということなのである。これに該当するものとしては、例えば万年救護本尊は大聖人から日興上人に弘安2年に与えられ、その授与書きには御真筆本尊で唯一「大本尊」という表現が記されているのです。
 そのためか、次項に記載するとおり、唯授一人の血脈相承を受けた歴代の中に万年救護本尊を根本とする見解を持った法主も存在したのです。


(9)大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)

 堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、

「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是
万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」
(通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。)

と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、

「板本尊の事也、今当山に在る也」

と改竄している記録が残されているのです。
 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、

「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」
(通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。)

と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、
「宗門から学会を取ったら何も残らない」
「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」
と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。


 以上のことを総括すれば、阿部は河辺に対して「偽物である」と言ったようですが、これは間違いで、戒壇の大御本尊は事実として立派な模刻本尊なのです。ただ、弘安2年10月の建立などではなく、弘安3年5月の日禅授与本尊を模刻して、(日犬の分析が正しければ)大聖人滅後100年以上経ってから建立されたものなのです。
 あとは、日善授与本尊に模写の形跡があることを確認し、戒壇の大御本尊の炭素14(放射性同位体)を精密に分析して、科学的な証拠を確認すれば、大石寺派の宗旨は根本的に転覆し、いよいよ創価学会も天下晴れて大聖人の言葉(御書)を根本にして、第三の千年の全人類のための教義体系へと再構築をすることになるのです。

 以上の事実を知ってもなお「戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐だと信じる」と、証拠も示せずに幻想にしがみつく方は、「イワシの頭を信じているんだが何か文句あるか」と開き直る原始人と何ら変わりの無い狂信、邪教の信者と言うことが出来ます。
 大聖人が御書で示されている原理を確認してみましょう。

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

 つまり、証拠を示せない主張は邪教だと大聖人は断定されているのです。やはり大石寺派は邪教だったのです 大石寺派(すでに広宣流布からリタイアしたので最近は退席痔派とも呼びます)では、自分たちの唯一のアイデンティティとして戒壇の大御本尊を主張しますし、大聖人の御書のとおりに実践していない老衰した自己中心の脱会者が、自分は大御本尊のある方がいいから日犬は悪でも仕方ない、と半泣きで侘びていたりもします。
しかし、貫主であった日顕自身が、戒壇の大御本尊についての真実を示唆する講釈を垂れたことで、いよいよ真実の大聖人の教えが明らかにされる「時」が来たと確信しています。
戒壇の大御本尊という立派な彫刻本尊が、実は大聖人御在世の建立ではないという証拠をたくさん示して、真実の大聖人の仏法について思索する契機としてみましょう。
 なお、それぞれの主張に根拠となる画像ファイルがたくさんあるのですが、ここでは省略させていただきます。

◎日顕が河辺メモでばらした戒壇の大御本尊偽物説の間違い

宗門でも有名な河辺メモは、かつての学会と宗門との連絡会議の学会側の記録と比較するとほとんど表現が一致していること等の実績から、その正確さについては知る人ぞ知る、という記録文書です。
その河辺メモで暴露された昭和53年2月7日付けの阿部教学部長(当時)と帝国ホテルでの会話の内容は、

「S53・3・7、A面談(注:当時阿部教学部長)・帝国H
一、 戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(写真判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。」

というものです。この河辺慈篤(故人)のメモに記載されている内容で重要な点は、
「法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」
の個所です。
 阿部の見解は、戒壇の大御本尊とは弘安3年5月9日に顕わされて日禅に授与された本尊を「籠抜き」と称する手法(御本尊に和紙を当てて、題目を書き写し、次にその和紙を木の板に当てて板に刻むという本尊の作成方法)で彫刻したもので、日時師か日有師の頃の筆だというものです。
 最も確実な確認の方法は、毎年の虫払い法要の際に公開される日禅授与本尊について、実際にどのように籠抜きをした形跡が残っているかを確認すれば良いのでしょうが、宗旨が根本からひっくり返るので、絶対に宗門はそれを認めるはずはないし、聞いても頭から無視し否定するしか道がない。邪宗門の言い訳文書を見ると、

「日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆本尊について(むろん日禅授与本尊も同様)写真撮影や鑑定調査を許していない。」

と、とにかく頭から否定してかかるしか逃れる道が無いことを自覚しているようです。
 しかし、情報化社会の中で、すでに多様な情報が共有されているのですから、阿部の主張を基礎に、そうした公開された情報を参考にして、一つずつ事実確認をすることで、戒壇の大御本尊の真実に迫ることとしましょう。また、邪宗門に対しては、

① 日禅授与本尊に籠抜きをした形跡が残っているかを確認せよ
② 戒壇の大御本尊をわずか数mg削って、AMS法で炭素14を分析せよ

 それによって事実を示せないならば、以下の根拠に基づき、戒壇の大御本尊とは大聖人滅後に日禅授与本尊を模刻したものだと断定するぞ!と責め続けましょう!
 学会総体としても、現時点では従来の宗旨を否定していないようですが、それは大聖人の言葉である

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

に基づいているからで、上記①、②によって完璧に証拠を確認出来たら、いよいよ教義体系を根本から正すことになるのでしょう。


◎戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々

(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い(是1)

 堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の退席寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げかけておられるのです。

「御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」
「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」
「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」
「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」

等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念(日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持していたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。
 要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、というのが堀上人の結論なのです。


(2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しか記載されていない(是2)

 大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、(1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入りの連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、
「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、

「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213)

と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。
 この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、

「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」

と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で板本尊は存在しなかったという証拠の一つです。


(3)戒壇の大御本尊の主題と日禅授与本尊の主題は極めて高い一致(是3)

 大聖人の御真筆本尊は、約140体が現存しており、いくつかを除いて立正安国会がそれらを「御本尊集」として公開しています。これらの御本尊の主題(題目)はデータベースになり、最新のコンピュータ・マッチングという手法でその類似性を確認することが可能です。
 また、戒壇の大御本尊については今まで写真が公開されていたのは熊田葦城著「日蓮聖人」という文献のみで、非常に不鮮明なものであったため、写真鑑定が出来るような状況ではありませんでした。しかし、邪宗門が奉安堂と称する安普請の建屋に御本尊を移転した際に、ある法華講がごく近接した間近な距離で撮影したようで、静岡在住の金原氏が入手したその写真と、日禅授与本尊の写真とをデータとしてパソコンに取り込み、比較をしたのです。
 その結果は驚くべきもので、他の約140体も含めて、御本尊の主題のサイズと形状(とくにヒゲと呼ばれる文字の撥ね方)は、それぞれが大きく異なっているため、当然のことですが一致するようなものは存在しません。
 ところが、日禅授与本尊と戒壇の大御本尊のみについては、御本尊全体のサイズは全く異なるにも拘わらず、題目のサイズと形状の一致度が極めて高いことが判明したのです。この事実は、阿部が主張した「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、(中略)日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」との見解を見事に確認し、証明するものです。
 阿部の息子のシンショウなどは、「そんな昔に、題目を一定の比率で拡大する技術など無かった」と間の抜けた反論をしようとしていたのですが、拡大などではなく、全く同じサイズの主題なのです。そのことを指摘されると、「私は教学は苦手で」「私の信仰だ」と、教学が無いのでシンショウは、大御本尊のことを「鰯の頭」と同じレベルで信じ込んでいることを自ら暴露したのです。お粗末な邪宗門です。


(4)戒壇の大御本尊の座配と日禅授与本尊の座配は完全に一致(是4)

 大聖人の御本尊を比較すれば、十界の座配はほとんどが異なっています。
 例えば、初期の10体ほどの真筆御本尊には、釈迦・多宝の二仏しか書かれておらず、全部が仏界のみです。
 この事実ひとつを見ても、邪宗門が学会の日寛上人の形木本尊を誹謗するに際し、最初の頃には「十界が全部書かれていないからニセ本尊だ」などと真っ赤なウソをついたのが、明らかです。彼らは単に「学会員の信心を破壊するためにならばどんなウソでもついてやる」という天魔の立場であることが理解できます。学会員から破折され、赤恥を晒してすぐに引っ込めたようですが。
 戒壇の大御本尊と日禅授与本尊の座配を比較すると、阿部が指摘したとおり日禅授与本尊を模写したのであれば当然のことですが、十界のすべての表現と共に「仏滅度後二千二百二十余年」までが全く同じ内容なのです。
 そして、「腰書き」と称する御本尊の下部に書き加えられたと考えられる部分に「弘安二年十月十二日」が存在するのです。
 これは、完全な模刻本尊だということです。戒壇の大御本尊とは、日禅授与本尊を大聖人の滅後に模刻したものだという見事な証拠です。


(5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
 これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者の書き方です。
130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は非常に明確な変遷があります。

① 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」
② 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」
③ 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」

 戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。
 そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊には記載されているのです。
 ここでもまた日顕が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。


(6)日興上人が書写された多数の御本尊は日禅授与本尊以外の御本尊を書写している(是6)

 歴代法主は常住本尊を書写するに際して「書写之」と書きますが、この「之」とは「戒壇の大御本尊」という主張が、以前は退席寺派ではまことしやかに流されていました。
 しかし、日興上人が「書写之」として書き残されたたくさんの御本尊の中に、この戒壇の大御本尊と同じ座配のものがどれほどあるかをいくつも調べてみましたが、少なくとも私が調べた範囲では見当たらないのです。数百もの日興上人の真筆御本尊の中には、日禅授与本尊を書写したものは存在するのかもしれませんが、大聖人の御本尊の重要性を熟知し、五老僧の本尊不敬を厳しく批判されておられた厳格な日興上人が、もしも血脈相伝の根本中の根本と称する「一大秘法」の戒壇の大御本尊という教義の根本が現実に存在したのであれば、それを無視して、他の大聖人の御本尊を書写するとはどういうことでしょうか?
 要するにこのことも、日興上人の御存命の頃には、そのような戒壇の大御本尊と称する「一大秘法」は存在していなかったということの傍証なのです。


(7)歴史上初めて板本尊の記録が残るのは、大聖人滅後約280年も経った1561年の保田妙本寺日我の文書(是7)

 すでに指摘したとおり、大聖人の出世の本懐とされた戒壇の大御本尊の存在は、日興上人が身延から富士に移られた際の宝物の中にも、その後の日興上人御在世中の文献にも何一つその記録は残っていません。
 板本尊という教義上特別に重要なはずの存在が、歴史上最初の記録として文献に現れるのは、大石寺派ではなく、4世日道と決別した日郷が開いた寺である千葉県の保田妙本寺出身の、日我という学僧が書き残した「観心本尊抄抜書」なのです。

「書写の本尊に現文あり、造立の仏に現証あり。久遠寺の板本尊今大石寺に在り大聖御存日の時の造立なり、池上の削りかけの御影、御入滅あるべきその九十月に造らせられるなり、一体の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に立て置くべく候」(富要-171)

 しかもその時期は、大聖人滅後ほぼ280年もの時間が流れているのです。現代との時間の隔たりで言えば、江戸時代の中頃ぐらいです。
 大聖人の出世の本懐というものがもしも最初から存在していたら、300年近くも歴史の表面に記録が残らないはずがありません。大聖人滅後にそっと模刻して、しばらく保管していたのです。


(8)大石寺派の文献で最初に板本尊の記録が残るのは、1573年以降の日主の文書(是8)

 歴史上初めて板本尊に関する記載が大石寺派の文献に現れたのは、大聖人滅後300年ほども経った、1580年頃に書かれた14世日主の「日興跡條々事示書」が最初のことです。
 そして、それ以降は頻繁に記録が残されているのです。300年にわたって、その存在すら誰も記録に残さないような重大な「宗祖の出世の本懐」が存在するなどということなど考えられるでしょうか。


◎改竄がなされた「日興跡條々事」ではなく、その草本が公開された

 現存する「日興跡條々事」は明らかな改竄が見受けられますが、堀上人が富士宗学要集8巻17ページに記載しているように、
「正本案文共に総本山に現存す」
と記された「案文」が「日蓮と本尊伝承」(水声社 金原明彦)で公開されました。その内容は、
「日興カ当身弘安弐年所給大本尊」
と、日興上人に弘安2年に給わったところの大本尊、ということが記録されているのです。
 つまり、大聖人から日興上人に継承されたのは、「弘安2年の大御本尊」ではなく、大聖人から日興上人に「弘安2年に与えられた」「大本尊」ということなのである。これに該当するものとしては、例えば万年救護本尊は大聖人から日興上人に弘安2年に与えられ、その授与書きには御真筆本尊で唯一「大本尊」という表現が記されているのです。
 そのためか、次項に記載するとおり、唯授一人の血脈相承を受けた歴代の中に万年救護本尊を根本とする見解を持った法主も存在したのです。


(9)大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)

 堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、

「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是
万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」
(通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。)

と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、

「板本尊の事也、今当山に在る也」

と改竄している記録が残されているのです。
 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、

「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」
(通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。)

と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、
「宗門から学会を取ったら何も残らない」
「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」
と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。


 以上のことを総括すれば、阿部は河辺に対して「偽物である」と言ったようですが、これは間違いで、戒壇の大御本尊は事実として立派な模刻本尊なのです。ただ、弘安2年10月の建立などではなく、弘安3年5月の日禅授与本尊を模刻して、(日犬の分析が正しければ)大聖人滅後100年以上経ってから建立されたものなのです。
 あとは、日善授与本尊に模写の形跡があることを確認し、戒壇の大御本尊の炭素14(放射性同位体)を精密に分析して、科学的な証拠を確認すれば、大石寺派の宗旨は根本的に転覆し、いよいよ創価学会も天下晴れて大聖人の言葉(御書)を根本にして、第三の千年の全人類のための教義体系へと再構築をすることになるのです。

 以上の事実を知ってもなお「戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐だと信じる」と、証拠も示せずに幻想にしがみつく方は、「イワシの頭を信じているんだが何か文句あるか」と開き直る原始人と何ら変わりの無い狂信、邪教の信者と言うことが出来ます。
 大聖人が御書で示されている原理を確認してみましょう。

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

 つまり、証拠を示せない主張は邪教だと大聖人は断定されているのです。やはり大石寺派は邪教だったのです

 

創価学会の「会憲」って何?

 投稿者:正宗批判を破す  投稿日:2017年10月28日(土)18時47分40秒
返信・引用
   創価学会は、新たに「会憲」なるものを制定した。宗教法人創価学会には、
所轄庁が認証した「規則」がもともと存在する。

 これは当該法人の基本法規にして、その下に、内部規範たる「会則」が別途、
定められている。

 すなわち、役所に届け出た法人規則たる「規則」と、会内運営規律の「会則」
が既に規定されているのに、なぜさらに「会憲」を置いたのか?

 意味も位置付けも不明な「会憲」。いかに法規を重ねて定めようと、邪教の
罪過は何も薄れないのに……。

  無意味の象徴

 この「会憲」、改めて見ると実におかしなものだ。まずは、屋上屋を架す無
駄である。

 従来の「会則」の第三条で「三代会長」として、「『三代会長』は、広宣流
布実現への死身弘法の体現者であり、この会の広宣流布の永遠の師匠である」

 と定め、同条第二項には、「『三代会長』の敬称は、『先生』とする」と規
定されている。

ところが「会憲」を見るとこれにも、第三条に「三代会長」を定め、同条第二
項の「先生」との呼称も、一文一句変わらない。

 既に「会則」の定めがあるのに、どうして「会憲」でも同じことを定めたの
だろうか?

   不安の象徴

 「会憲」は、不安の象徴である。ここ何年も会員の前に姿を見せない絶対的
権力者・池田大作の影響力が、日に日に希薄になっている。

 大作の力がなくなっても組織を維持できるのか。現首脳は、それを極めて不
安に感じているから「三代会長」にすがり、同じことを何度も繰り返して会内
に徹底したいのだ。

 すなわち「会憲」は、創価学会の不安の象徴であり、組織をまとめきれない
焦燥の表われである。

   矛盾の象徴

これまで創価学会は、僧侶の存在意義を否定してきた。その目的は、本宗の
血脈正統への背逆と否定に底意があるが、表面的には、僧俗平等を謳い、これ
を根拠にして、友人葬を推し進めてきたはずである。

なのにだ……、「会憲」には、「教師および准教師」として第十三条に、
   「儀式行事を執行し、会員を指導し、世界広宣流布を推進する任に当たる
模範のリーダー」「会長がこれを任命する」とした。

儀式行事を主催し、「信者」を指導するのは「僧侶」である。それが「教師」
「准教師」に替わっただけのこと。

どこが違うのか。何のことはない、創価学会が平等を標榜してきた理由は、
日蓮正宗を排除するための口実のみ。実際には組織内に平等など通用しないし、
ありもしない。

「会憲」は、かつての言い分と矛盾する法規である。

   欺瞞の象徴

 「会憲」の最も甚だしい欺瞞は「目的」にある。それは、第四条に、「日蓮
大聖人の仏法の本義に基づき(中略)日蓮大聖人の仏法を世界に広宣流布し、も
ってそれを基調とする世界平和の実現および人類文化の向上に貢献する」とあ
るものだ。

 この文言、まるで煙に巻かれたように感じるのは、抽象的単語の羅列だから。
「日蓮大聖人の仏法の本義」とは何だ?

 具体的には何を「世界に広宣流布」するのだ?

 なぜそれが「世界平和の実現」とか「人類文化の向上」に繋がるのだ? す
べてが単なる言葉遊びであって、何も見えてこない。それはなぜか。

 総本山第二十六世日寛上人は、「夫れ本尊とは所縁の境なり、境能く智を発
し、智亦行を導く。故に境若し正しからざる則んば智行も亦随って正しからず」
(六巻抄 四二㌻)と御指南である。

 中心肝要の対境である御本尊に迷うから、創価学会が何を企もうとも、その
すべてが迷走に陥る。「会憲」など、学会首脳の焦り解消以外、何の役にも立
たぬ徒労に過ぎないのだ。

 そんなものに翻弄される身の上の学会員を、一人でも多く救おうではないか。

 

『御講に参詣しよう』チラシが発刊

 投稿者:おきうら  投稿日:2017年 9月 8日(金)11時27分8秒
返信・引用
  大石寺派(すでに広宣流布からリタイアしたので最近は退席痔派とも呼びます)では、自分たちの唯一のアイデンティティとして戒壇の大御本尊を主張しますし、大聖人の御書のとおりに実践していない老衰した自己中心の脱会者が、自分は大御本尊のある方がいいから日犬は悪でも仕方ない、と半泣きで侘びていたりもします。
しかし、貫主であった日顕自身が、戒壇の大御本尊についての真実を示唆する講釈を垂れたことで、いよいよ真実の大聖人の教えが明らかにされる「時」が来たと確信しています。
戒壇の大御本尊という立派な彫刻本尊が、実は大聖人御在世の建立ではないという証拠をたくさん示して、真実の大聖人の仏法について思索する契機としてみましょう。
 なお、それぞれの主張に根拠となる画像ファイルがたくさんあるのですが、ここでは省略させていただきます。

◎日顕が河辺メモでばらした戒壇の大御本尊偽物説の間違い

宗門でも有名な河辺メモは、かつての学会と宗門との連絡会議の学会側の記録と比較するとほとんど表現が一致していること等の実績から、その正確さについては知る人ぞ知る、という記録文書です。
その河辺メモで暴露された昭和53年2月7日付けの阿部教学部長(当時)と帝国ホテルでの会話の内容は、

「S53・3・7、A面談(注:当時阿部教学部長)・帝国H
一、 戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(写真判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。」

というものです。この河辺慈篤(故人)のメモに記載されている内容で重要な点は、
「法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」
の個所です。
 阿部の見解は、戒壇の大御本尊とは弘安3年5月9日に顕わされて日禅に授与された本尊を「籠抜き」と称する手法(御本尊に和紙を当てて、題目を書き写し、次にその和紙を木の板に当てて板に刻むという本尊の作成方法)で彫刻したもので、日時師か日有師の頃の筆だというものです。
 最も確実な確認の方法は、毎年の虫払い法要の際に公開される日禅授与本尊について、実際にどのように籠抜きをした形跡が残っているかを確認すれば良いのでしょうが、宗旨が根本からひっくり返るので、絶対に宗門はそれを認めるはずはないし、聞いても頭から無視し否定するしか道がない。邪宗門の言い訳文書を見ると、

「日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆本尊について(むろん日禅授与本尊も同様)写真撮影や鑑定調査を許していない。」

と、とにかく頭から否定してかかるしか逃れる道が無いことを自覚しているようです。
 しかし、情報化社会の中で、すでに多様な情報が共有されているのですから、阿部の主張を基礎に、そうした公開された情報を参考にして、一つずつ事実確認をすることで、戒壇の大御本尊の真実に迫ることとしましょう。また、邪宗門に対しては、

① 日禅授与本尊に籠抜きをした形跡が残っているかを確認せよ
② 戒壇の大御本尊をわずか数mg削って、AMS法で炭素14を分析せよ

 それによって事実を示せないならば、以下の根拠に基づき、戒壇の大御本尊とは大聖人滅後に日禅授与本尊を模刻したものだと断定するぞ!と責め続けましょう!
 学会総体としても、現時点では従来の宗旨を否定していないようですが、それは大聖人の言葉である

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

に基づいているからで、上記①、②によって完璧に証拠を確認出来たら、いよいよ教義体系を根本から正すことになるのでしょう。


◎戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々

(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い(是1)

 堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の退席寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げかけておられるのです。

「御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」
「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」
「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」
「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」

等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念(日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持していたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。
 要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、というのが堀上人の結論なのです。


(2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しか記載されていない(是2)

 大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、(1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入りの連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、
「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、

「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213)

と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。
 この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、

「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」

と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で板本尊は存在しなかったという証拠の一つです。


(3)戒壇の大御本尊の主題と日禅授与本尊の主題は極めて高い一致(是3)

 大聖人の御真筆本尊は、約140体が現存しており、いくつかを除いて立正安国会がそれらを「御本尊集」として公開しています。これらの御本尊の主題(題目)はデータベースになり、最新のコンピュータ・マッチングという手法でその類似性を確認することが可能です。
 また、戒壇の大御本尊については今まで写真が公開されていたのは熊田葦城著「日蓮聖人」という文献のみで、非常に不鮮明なものであったため、写真鑑定が出来るような状況ではありませんでした。しかし、邪宗門が奉安堂と称する安普請の建屋に御本尊を移転した際に、ある法華講がごく近接した間近な距離で撮影したようで、静岡在住の金原氏が入手したその写真と、日禅授与本尊の写真とをデータとしてパソコンに取り込み、比較をしたのです。
 その結果は驚くべきもので、他の約140体も含めて、御本尊の主題のサイズと形状(とくにヒゲと呼ばれる文字の撥ね方)は、それぞれが大きく異なっているため、当然のことですが一致するようなものは存在しません。
 ところが、日禅授与本尊と戒壇の大御本尊のみについては、御本尊全体のサイズは全く異なるにも拘わらず、題目のサイズと形状の一致度が極めて高いことが判明したのです。この事実は、阿部が主張した「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、(中略)日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」との見解を見事に確認し、証明するものです。
 阿部の息子のシンショウなどは、「そんな昔に、題目を一定の比率で拡大する技術など無かった」と間の抜けた反論をしようとしていたのですが、拡大などではなく、全く同じサイズの主題なのです。そのことを指摘されると、「私は教学は苦手で」「私の信仰だ」と、教学が無いのでシンショウは、大御本尊のことを「鰯の頭」と同じレベルで信じ込んでいることを自ら暴露したのです。お粗末な邪宗門です。


(4)戒壇の大御本尊の座配と日禅授与本尊の座配は完全に一致(是4)

 大聖人の御本尊を比較すれば、十界の座配はほとんどが異なっています。
 例えば、初期の10体ほどの真筆御本尊には、釈迦・多宝の二仏しか書かれておらず、全部が仏界のみです。
 この事実ひとつを見ても、邪宗門が学会の日寛上人の形木本尊を誹謗するに際し、最初の頃には「十界が全部書かれていないからニセ本尊だ」などと真っ赤なウソをついたのが、明らかです。彼らは単に「学会員の信心を破壊するためにならばどんなウソでもついてやる」という天魔の立場であることが理解できます。学会員から破折され、赤恥を晒してすぐに引っ込めたようですが。
 戒壇の大御本尊と日禅授与本尊の座配を比較すると、阿部が指摘したとおり日禅授与本尊を模写したのであれば当然のことですが、十界のすべての表現と共に「仏滅度後二千二百二十余年」までが全く同じ内容なのです。
 そして、「腰書き」と称する御本尊の下部に書き加えられたと考えられる部分に「弘安二年十月十二日」が存在するのです。
 これは、完全な模刻本尊だということです。戒壇の大御本尊とは、日禅授与本尊を大聖人の滅後に模刻したものだという見事な証拠です。


(5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
 これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者の書き方です。
130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は非常に明確な変遷があります。

① 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」
② 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」
③ 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」

 戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。
 そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊には記載されているのです。
 ここでもまた日顕が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。


(6)日興上人が書写された多数の御本尊は日禅授与本尊以外の御本尊を書写している(是6)

 歴代法主は常住本尊を書写するに際して「書写之」と書きますが、この「之」とは「戒壇の大御本尊」という主張が、以前は退席寺派ではまことしやかに流されていました。
 しかし、日興上人が「書写之」として書き残されたたくさんの御本尊の中に、この戒壇の大御本尊と同じ座配のものがどれほどあるかをいくつも調べてみましたが、少なくとも私が調べた範囲では見当たらないのです。数百もの日興上人の真筆御本尊の中には、日禅授与本尊を書写したものは存在するのかもしれませんが、大聖人の御本尊の重要性を熟知し、五老僧の本尊不敬を厳しく批判されておられた厳格な日興上人が、もしも血脈相伝の根本中の根本と称する「一大秘法」の戒壇の大御本尊という教義の根本が現実に存在したのであれば、それを無視して、他の大聖人の御本尊を書写するとはどういうことでしょうか?
 要するにこのことも、日興上人の御存命の頃には、そのような戒壇の大御本尊と称する「一大秘法」は存在していなかったということの傍証なのです。


(7)歴史上初めて板本尊の記録が残るのは、大聖人滅後約280年も経った1561年の保田妙本寺日我の文書(是7)

 すでに指摘したとおり、大聖人の出世の本懐とされた戒壇の大御本尊の存在は、日興上人が身延から富士に移られた際の宝物の中にも、その後の日興上人御在世中の文献にも何一つその記録は残っていません。
 板本尊という教義上特別に重要なはずの存在が、歴史上最初の記録として文献に現れるのは、大石寺派ではなく、4世日道と決別した日郷が開いた寺である千葉県の保田妙本寺出身の、日我という学僧が書き残した「観心本尊抄抜書」なのです。

「書写の本尊に現文あり、造立の仏に現証あり。久遠寺の板本尊今大石寺に在り大聖御存日の時の造立なり、池上の削りかけの御影、御入滅あるべきその九十月に造らせられるなり、一体の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に立て置くべく候」(富要-171)

 しかもその時期は、大聖人滅後ほぼ280年もの時間が流れているのです。現代との時間の隔たりで言えば、江戸時代の中頃ぐらいです。
 大聖人の出世の本懐というものがもしも最初から存在していたら、300年近くも歴史の表面に記録が残らないはずがありません。大聖人滅後にそっと模刻して、しばらく保管していたのです。


(8)大石寺派の文献で最初に板本尊の記録が残るのは、1573年以降の日主の文書(是8)

 歴史上初めて板本尊に関する記載が大石寺派の文献に現れたのは、大聖人滅後300年ほども経った、1580年頃に書かれた14世日主の「日興跡條々事示書」が最初のことです。
 そして、それ以降は頻繁に記録が残されているのです。300年にわたって、その存在すら誰も記録に残さないような重大な「宗祖の出世の本懐」が存在するなどということなど考えられるでしょうか。


◎改竄がなされた「日興跡條々事」ではなく、その草本が公開された

 現存する「日興跡條々事」は明らかな改竄が見受けられますが、堀上人が富士宗学要集8巻17ページに記載しているように、
「正本案文共に総本山に現存す」
と記された「案文」が「日蓮と本尊伝承」(水声社 金原明彦)で公開されました。その内容は、
「日興カ当身弘安弐年所給大本尊」
と、日興上人に弘安2年に給わったところの大本尊、ということが記録されているのです。
 つまり、大聖人から日興上人に継承されたのは、「弘安2年の大御本尊」ではなく、大聖人から日興上人に「弘安2年に与えられた」「大本尊」ということなのである。これに該当するものとしては、例えば万年救護本尊は大聖人から日興上人に弘安2年に与えられ、その授与書きには御真筆本尊で唯一「大本尊」という表現が記されているのです。
 そのためか、次項に記載するとおり、唯授一人の血脈相承を受けた歴代の中に万年救護本尊を根本とする見解を持った法主も存在したのです。


(9)大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)

 堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、

「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是
万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」
(通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。)

と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、

「板本尊の事也、今当山に在る也」

と改竄している記録が残されているのです。
 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、

「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」
(通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。)

と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、
「宗門から学会を取ったら何も残らない」
「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」
と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。


 以上のことを総括すれば、阿部は河辺に対して「偽物である」と言ったようですが、これは間違いで、戒壇の大御本尊は事実として立派な模刻本尊なのです。ただ、弘安2年10月の建立などではなく、弘安3年5月の日禅授与本尊を模刻して、(日犬の分析が正しければ)大聖人滅後100年以上経ってから建立されたものなのです。
 あとは、日善授与本尊に模写の形跡があることを確認し、戒壇の大御本尊の炭素14(放射性同位体)を精密に分析して、科学的な証拠を確認すれば、大石寺派の宗旨は根本的に転覆し、いよいよ創価学会も天下晴れて大聖人の言葉(御書)を根本にして、第三の千年の全人類のための教義体系へと再構築をすることになるのです。

 以上の事実を知ってもなお「戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐だと信じる」と、証拠も示せずに幻想にしがみつく方は、「イワシの頭を信じているんだが何か文句あるか」と開き直る原始人と何ら変わりの無い狂信、邪教の信者と言うことが出来ます。
 大聖人が御書で示されている原理を確認してみましょう。

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

 つまり、証拠を示せない主張は邪教だと大聖人は断定されているのです。やはり大石寺派は邪教だったのです 大石寺派(すでに広宣流布からリタイアしたので最近は退席痔派とも呼びます)では、自分たちの唯一のアイデンティティとして戒壇の大御本尊を主張しますし、大聖人の御書のとおりに実践していない老衰した自己中心の脱会者が、自分は大御本尊のある方がいいから日犬は悪でも仕方ない、と半泣きで侘びていたりもします。
しかし、貫主であった日顕自身が、戒壇の大御本尊についての真実を示唆する講釈を垂れたことで、いよいよ真実の大聖人の教えが明らかにされる「時」が来たと確信しています。
戒壇の大御本尊という立派な彫刻本尊が、実は大聖人御在世の建立ではないという証拠をたくさん示して、真実の大聖人の仏法について思索する契機としてみましょう。
 なお、それぞれの主張に根拠となる画像ファイルがたくさんあるのですが、ここでは省略させていただきます。

◎日顕が河辺メモでばらした戒壇の大御本尊偽物説の間違い

宗門でも有名な河辺メモは、かつての学会と宗門との連絡会議の学会側の記録と比較するとほとんど表現が一致していること等の実績から、その正確さについては知る人ぞ知る、という記録文書です。
その河辺メモで暴露された昭和53年2月7日付けの阿部教学部長(当時)と帝国ホテルでの会話の内容は、

「S53・3・7、A面談(注:当時阿部教学部長)・帝国H
一、 戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(写真判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。」

というものです。この河辺慈篤(故人)のメモに記載されている内容で重要な点は、
「法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」
の個所です。
 阿部の見解は、戒壇の大御本尊とは弘安3年5月9日に顕わされて日禅に授与された本尊を「籠抜き」と称する手法(御本尊に和紙を当てて、題目を書き写し、次にその和紙を木の板に当てて板に刻むという本尊の作成方法)で彫刻したもので、日時師か日有師の頃の筆だというものです。
 最も確実な確認の方法は、毎年の虫払い法要の際に公開される日禅授与本尊について、実際にどのように籠抜きをした形跡が残っているかを確認すれば良いのでしょうが、宗旨が根本からひっくり返るので、絶対に宗門はそれを認めるはずはないし、聞いても頭から無視し否定するしか道がない。邪宗門の言い訳文書を見ると、

「日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆本尊について(むろん日禅授与本尊も同様)写真撮影や鑑定調査を許していない。」

と、とにかく頭から否定してかかるしか逃れる道が無いことを自覚しているようです。
 しかし、情報化社会の中で、すでに多様な情報が共有されているのですから、阿部の主張を基礎に、そうした公開された情報を参考にして、一つずつ事実確認をすることで、戒壇の大御本尊の真実に迫ることとしましょう。また、邪宗門に対しては、

① 日禅授与本尊に籠抜きをした形跡が残っているかを確認せよ
② 戒壇の大御本尊をわずか数mg削って、AMS法で炭素14を分析せよ

 それによって事実を示せないならば、以下の根拠に基づき、戒壇の大御本尊とは大聖人滅後に日禅授与本尊を模刻したものだと断定するぞ!と責め続けましょう!
 学会総体としても、現時点では従来の宗旨を否定していないようですが、それは大聖人の言葉である

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

に基づいているからで、上記①、②によって完璧に証拠を確認出来たら、いよいよ教義体系を根本から正すことになるのでしょう。


◎戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々

(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い(是1)

 堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の退席寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げかけておられるのです。

「御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」
「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」
「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」
「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」

等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念(日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持していたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。
 要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、というのが堀上人の結論なのです。


(2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しか記載されていない(是2)

 大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、(1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入りの連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、
「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、

「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213)

と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。
 この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、

「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」

と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で板本尊は存在しなかったという証拠の一つです。


(3)戒壇の大御本尊の主題と日禅授与本尊の主題は極めて高い一致(是3)

 大聖人の御真筆本尊は、約140体が現存しており、いくつかを除いて立正安国会がそれらを「御本尊集」として公開しています。これらの御本尊の主題(題目)はデータベースになり、最新のコンピュータ・マッチングという手法でその類似性を確認することが可能です。
 また、戒壇の大御本尊については今まで写真が公開されていたのは熊田葦城著「日蓮聖人」という文献のみで、非常に不鮮明なものであったため、写真鑑定が出来るような状況ではありませんでした。しかし、邪宗門が奉安堂と称する安普請の建屋に御本尊を移転した際に、ある法華講がごく近接した間近な距離で撮影したようで、静岡在住の金原氏が入手したその写真と、日禅授与本尊の写真とをデータとしてパソコンに取り込み、比較をしたのです。
 その結果は驚くべきもので、他の約140体も含めて、御本尊の主題のサイズと形状(とくにヒゲと呼ばれる文字の撥ね方)は、それぞれが大きく異なっているため、当然のことですが一致するようなものは存在しません。
 ところが、日禅授与本尊と戒壇の大御本尊のみについては、御本尊全体のサイズは全く異なるにも拘わらず、題目のサイズと形状の一致度が極めて高いことが判明したのです。この事実は、阿部が主張した「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、(中略)日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」との見解を見事に確認し、証明するものです。
 阿部の息子のシンショウなどは、「そんな昔に、題目を一定の比率で拡大する技術など無かった」と間の抜けた反論をしようとしていたのですが、拡大などではなく、全く同じサイズの主題なのです。そのことを指摘されると、「私は教学は苦手で」「私の信仰だ」と、教学が無いのでシンショウは、大御本尊のことを「鰯の頭」と同じレベルで信じ込んでいることを自ら暴露したのです。お粗末な邪宗門です。


(4)戒壇の大御本尊の座配と日禅授与本尊の座配は完全に一致(是4)

 大聖人の御本尊を比較すれば、十界の座配はほとんどが異なっています。
 例えば、初期の10体ほどの真筆御本尊には、釈迦・多宝の二仏しか書かれておらず、全部が仏界のみです。
 この事実ひとつを見ても、邪宗門が学会の日寛上人の形木本尊を誹謗するに際し、最初の頃には「十界が全部書かれていないからニセ本尊だ」などと真っ赤なウソをついたのが、明らかです。彼らは単に「学会員の信心を破壊するためにならばどんなウソでもついてやる」という天魔の立場であることが理解できます。学会員から破折され、赤恥を晒してすぐに引っ込めたようですが。
 戒壇の大御本尊と日禅授与本尊の座配を比較すると、阿部が指摘したとおり日禅授与本尊を模写したのであれば当然のことですが、十界のすべての表現と共に「仏滅度後二千二百二十余年」までが全く同じ内容なのです。
 そして、「腰書き」と称する御本尊の下部に書き加えられたと考えられる部分に「弘安二年十月十二日」が存在するのです。
 これは、完全な模刻本尊だということです。戒壇の大御本尊とは、日禅授与本尊を大聖人の滅後に模刻したものだという見事な証拠です。


(5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
 これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者の書き方です。
130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は非常に明確な変遷があります。

① 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」
② 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」
③ 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」

 戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。
 そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊には記載されているのです。
 ここでもまた日顕が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。


(6)日興上人が書写された多数の御本尊は日禅授与本尊以外の御本尊を書写している(是6)

 歴代法主は常住本尊を書写するに際して「書写之」と書きますが、この「之」とは「戒壇の大御本尊」という主張が、以前は退席寺派ではまことしやかに流されていました。
 しかし、日興上人が「書写之」として書き残されたたくさんの御本尊の中に、この戒壇の大御本尊と同じ座配のものがどれほどあるかをいくつも調べてみましたが、少なくとも私が調べた範囲では見当たらないのです。数百もの日興上人の真筆御本尊の中には、日禅授与本尊を書写したものは存在するのかもしれませんが、大聖人の御本尊の重要性を熟知し、五老僧の本尊不敬を厳しく批判されておられた厳格な日興上人が、もしも血脈相伝の根本中の根本と称する「一大秘法」の戒壇の大御本尊という教義の根本が現実に存在したのであれば、それを無視して、他の大聖人の御本尊を書写するとはどういうことでしょうか?
 要するにこのことも、日興上人の御存命の頃には、そのような戒壇の大御本尊と称する「一大秘法」は存在していなかったということの傍証なのです。


(7)歴史上初めて板本尊の記録が残るのは、大聖人滅後約280年も経った1561年の保田妙本寺日我の文書(是7)

 すでに指摘したとおり、大聖人の出世の本懐とされた戒壇の大御本尊の存在は、日興上人が身延から富士に移られた際の宝物の中にも、その後の日興上人御在世中の文献にも何一つその記録は残っていません。
 板本尊という教義上特別に重要なはずの存在が、歴史上最初の記録として文献に現れるのは、大石寺派ではなく、4世日道と決別した日郷が開いた寺である千葉県の保田妙本寺出身の、日我という学僧が書き残した「観心本尊抄抜書」なのです。

「書写の本尊に現文あり、造立の仏に現証あり。久遠寺の板本尊今大石寺に在り大聖御存日の時の造立なり、池上の削りかけの御影、御入滅あるべきその九十月に造らせられるなり、一体の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に立て置くべく候」(富要-171)

 しかもその時期は、大聖人滅後ほぼ280年もの時間が流れているのです。現代との時間の隔たりで言えば、江戸時代の中頃ぐらいです。
 大聖人の出世の本懐というものがもしも最初から存在していたら、300年近くも歴史の表面に記録が残らないはずがありません。大聖人滅後にそっと模刻して、しばらく保管していたのです。


(8)大石寺派の文献で最初に板本尊の記録が残るのは、1573年以降の日主の文書(是8)

 歴史上初めて板本尊に関する記載が大石寺派の文献に現れたのは、大聖人滅後300年ほども経った、1580年頃に書かれた14世日主の「日興跡條々事示書」が最初のことです。
 そして、それ以降は頻繁に記録が残されているのです。300年にわたって、その存在すら誰も記録に残さないような重大な「宗祖の出世の本懐」が存在するなどということなど考えられるでしょうか。


◎改竄がなされた「日興跡條々事」ではなく、その草本が公開された

 現存する「日興跡條々事」は明らかな改竄が見受けられますが、堀上人が富士宗学要集8巻17ページに記載しているように、
「正本案文共に総本山に現存す」
と記された「案文」が「日蓮と本尊伝承」(水声社 金原明彦)で公開されました。その内容は、
「日興カ当身弘安弐年所給大本尊」
と、日興上人に弘安2年に給わったところの大本尊、ということが記録されているのです。
 つまり、大聖人から日興上人に継承されたのは、「弘安2年の大御本尊」ではなく、大聖人から日興上人に「弘安2年に与えられた」「大本尊」ということなのである。これに該当するものとしては、例えば万年救護本尊は大聖人から日興上人に弘安2年に与えられ、その授与書きには御真筆本尊で唯一「大本尊」という表現が記されているのです。
 そのためか、次項に記載するとおり、唯授一人の血脈相承を受けた歴代の中に万年救護本尊を根本とする見解を持った法主も存在したのです。


(9)大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)

 堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、

「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是
万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」
(通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。)

と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、

「板本尊の事也、今当山に在る也」

と改竄している記録が残されているのです。
 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、

「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」
(通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。)

と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、
「宗門から学会を取ったら何も残らない」
「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」
と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。


 以上のことを総括すれば、阿部は河辺に対して「偽物である」と言ったようですが、これは間違いで、戒壇の大御本尊は事実として立派な模刻本尊なのです。ただ、弘安2年10月の建立などではなく、弘安3年5月の日禅授与本尊を模刻して、(日犬の分析が正しければ)大聖人滅後100年以上経ってから建立されたものなのです。
 あとは、日善授与本尊に模写の形跡があることを確認し、戒壇の大御本尊の炭素14(放射性同位体)を精密に分析して、科学的な証拠を確認すれば、大石寺派の宗旨は根本的に転覆し、いよいよ創価学会も天下晴れて大聖人の言葉(御書)を根本にして、第三の千年の全人類のための教義体系へと再構築をすることになるのです。

 以上の事実を知ってもなお「戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐だと信じる」と、証拠も示せずに幻想にしがみつく方は、「イワシの頭を信じているんだが何か文句あるか」と開き直る原始人と何ら変わりの無い狂信、邪教の信者と言うことが出来ます。
 大聖人が御書で示されている原理を確認してみましょう。

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

 つまり、証拠を示せない主張は邪教だと大聖人は断定されているのです。やはり大石寺派は邪教だったのです

 

『御講に参詣しよう』チラシが発刊

 投稿者:正宗批判を破す  投稿日:2017年 9月 7日(木)17時52分40秒
返信・引用
   八月七日、御報恩御講への参詣を推進する「御講に参詣しよう」と題したチ
ラシが、大日蓮出版より発刊された。

 これは、御講参詣者を増やし、広布の人材を育成するために作製されたもの
である。

 内容は、日蓮大聖人をはじめとする三宝に報恩感謝すべきことや、僧侶によ
る法話を聴聞することの大切さなどについて記され、講中全員参加での御講の
奉修を推進している。

 体裁はB五判、両面カラー、定価は三円(税込み・送料別)となっており、十
枚単位で購入できる。申し込み、問い合わせは大日蓮出版まで。


 

逝ってらっしゃい~

 投稿者:おきうら  投稿日:2017年 9月 6日(水)17時31分54秒
返信・引用
  大石寺派(すでに広宣流布からリタイアしたので最近は退席痔派とも呼びます)では、自分たちの唯一のアイデンティティとして戒壇の大御本尊を主張しますし、大聖人の御書のとおりに実践していない老衰した自己中心の脱会者が、自分は大御本尊のある方がいいから日犬は悪でも仕方ない、と半泣きで侘びていたりもします。
しかし、貫主であった日顕自身が、戒壇の大御本尊についての真実を示唆する講釈を垂れたことで、いよいよ真実の大聖人の教えが明らかにされる「時」が来たと確信しています。
戒壇の大御本尊という立派な彫刻本尊が、実は大聖人御在世の建立ではないという証拠をたくさん示して、真実の大聖人の仏法について思索する契機としてみましょう。
 なお、それぞれの主張に根拠となる画像ファイルがたくさんあるのですが、ここでは省略させていただきます。

◎日顕が河辺メモでばらした戒壇の大御本尊偽物説の間違い

宗門でも有名な河辺メモは、かつての学会と宗門との連絡会議の学会側の記録と比較するとほとんど表現が一致していること等の実績から、その正確さについては知る人ぞ知る、という記録文書です。
その河辺メモで暴露された昭和53年2月7日付けの阿部教学部長(当時)と帝国ホテルでの会話の内容は、

「S53・3・7、A面談(注:当時阿部教学部長)・帝国H
一、 戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(写真判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。」

というものです。この河辺慈篤(故人)のメモに記載されている内容で重要な点は、
「法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」
の個所です。
 阿部の見解は、戒壇の大御本尊とは弘安3年5月9日に顕わされて日禅に授与された本尊を「籠抜き」と称する手法(御本尊に和紙を当てて、題目を書き写し、次にその和紙を木の板に当てて板に刻むという本尊の作成方法)で彫刻したもので、日時師か日有師の頃の筆だというものです。
 最も確実な確認の方法は、毎年の虫払い法要の際に公開される日禅授与本尊について、実際にどのように籠抜きをした形跡が残っているかを確認すれば良いのでしょうが、宗旨が根本からひっくり返るので、絶対に宗門はそれを認めるはずはないし、聞いても頭から無視し否定するしか道がない。邪宗門の言い訳文書を見ると、

「日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆本尊について(むろん日禅授与本尊も同様)写真撮影や鑑定調査を許していない。」

と、とにかく頭から否定してかかるしか逃れる道が無いことを自覚しているようです。
 しかし、情報化社会の中で、すでに多様な情報が共有されているのですから、阿部の主張を基礎に、そうした公開された情報を参考にして、一つずつ事実確認をすることで、戒壇の大御本尊の真実に迫ることとしましょう。また、邪宗門に対しては、

① 日禅授与本尊に籠抜きをした形跡が残っているかを確認せよ
② 戒壇の大御本尊をわずか数mg削って、AMS法で炭素14を分析せよ

 それによって事実を示せないならば、以下の根拠に基づき、戒壇の大御本尊とは大聖人滅後に日禅授与本尊を模刻したものだと断定するぞ!と責め続けましょう!
 学会総体としても、現時点では従来の宗旨を否定していないようですが、それは大聖人の言葉である

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

に基づいているからで、上記①、②によって完璧に証拠を確認出来たら、いよいよ教義体系を根本から正すことになるのでしょう。


◎戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々

(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い(是1)

 堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の退席寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げかけておられるのです。

「御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」
「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」
「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」
「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」

等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念(日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持していたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。
 要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、というのが堀上人の結論なのです。


(2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しか記載されていない(是2)

 大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、(1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入りの連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、
「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、

「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213)

と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。
 この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、

「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」

と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で板本尊は存在しなかったという証拠の一つです。


(3)戒壇の大御本尊の主題と日禅授与本尊の主題は極めて高い一致(是3)

 大聖人の御真筆本尊は、約140体が現存しており、いくつかを除いて立正安国会がそれらを「御本尊集」として公開しています。これらの御本尊の主題(題目)はデータベースになり、最新のコンピュータ・マッチングという手法でその類似性を確認することが可能です。
 また、戒壇の大御本尊については今まで写真が公開されていたのは熊田葦城著「日蓮聖人」という文献のみで、非常に不鮮明なものであったため、写真鑑定が出来るような状況ではありませんでした。しかし、邪宗門が奉安堂と称する安普請の建屋に御本尊を移転した際に、ある法華講がごく近接した間近な距離で撮影したようで、静岡在住の金原氏が入手したその写真と、日禅授与本尊の写真とをデータとしてパソコンに取り込み、比較をしたのです。
 その結果は驚くべきもので、他の約140体も含めて、御本尊の主題のサイズと形状(とくにヒゲと呼ばれる文字の撥ね方)は、それぞれが大きく異なっているため、当然のことですが一致するようなものは存在しません。
 ところが、日禅授与本尊と戒壇の大御本尊のみについては、御本尊全体のサイズは全く異なるにも拘わらず、題目のサイズと形状の一致度が極めて高いことが判明したのです。この事実は、阿部が主張した「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、(中略)日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」との見解を見事に確認し、証明するものです。
 阿部の息子のシンショウなどは、「そんな昔に、題目を一定の比率で拡大する技術など無かった」と間の抜けた反論をしようとしていたのですが、拡大などではなく、全く同じサイズの主題なのです。そのことを指摘されると、「私は教学は苦手で」「私の信仰だ」と、教学が無いのでシンショウは、大御本尊のことを「鰯の頭」と同じレベルで信じ込んでいることを自ら暴露したのです。お粗末な邪宗門です。


(4)戒壇の大御本尊の座配と日禅授与本尊の座配は完全に一致(是4)

 大聖人の御本尊を比較すれば、十界の座配はほとんどが異なっています。
 例えば、初期の10体ほどの真筆御本尊には、釈迦・多宝の二仏しか書かれておらず、全部が仏界のみです。
 この事実ひとつを見ても、邪宗門が学会の日寛上人の形木本尊を誹謗するに際し、最初の頃には「十界が全部書かれていないからニセ本尊だ」などと真っ赤なウソをついたのが、明らかです。彼らは単に「学会員の信心を破壊するためにならばどんなウソでもついてやる」という天魔の立場であることが理解できます。学会員から破折され、赤恥を晒してすぐに引っ込めたようですが。
 戒壇の大御本尊と日禅授与本尊の座配を比較すると、阿部が指摘したとおり日禅授与本尊を模写したのであれば当然のことですが、十界のすべての表現と共に「仏滅度後二千二百二十余年」までが全く同じ内容なのです。
 そして、「腰書き」と称する御本尊の下部に書き加えられたと考えられる部分に「弘安二年十月十二日」が存在するのです。
 これは、完全な模刻本尊だということです。戒壇の大御本尊とは、日禅授与本尊を大聖人の滅後に模刻したものだという見事な証拠です。


(5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
 これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者の書き方です。
130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は非常に明確な変遷があります。

① 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」
② 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」
③ 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」

 戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。
 そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊には記載されているのです。
 ここでもまた日顕が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。


(6)日興上人が書写された多数の御本尊は日禅授与本尊以外の御本尊を書写している(是6)

 歴代法主は常住本尊を書写するに際して「書写之」と書きますが、この「之」とは「戒壇の大御本尊」という主張が、以前は退席寺派ではまことしやかに流されていました。
 しかし、日興上人が「書写之」として書き残されたたくさんの御本尊の中に、この戒壇の大御本尊と同じ座配のものがどれほどあるかをいくつも調べてみましたが、少なくとも私が調べた範囲では見当たらないのです。数百もの日興上人の真筆御本尊の中には、日禅授与本尊を書写したものは存在するのかもしれませんが、大聖人の御本尊の重要性を熟知し、五老僧の本尊不敬を厳しく批判されておられた厳格な日興上人が、もしも血脈相伝の根本中の根本と称する「一大秘法」の戒壇の大御本尊という教義の根本が現実に存在したのであれば、それを無視して、他の大聖人の御本尊を書写するとはどういうことでしょうか?
 要するにこのことも、日興上人の御存命の頃には、そのような戒壇の大御本尊と称する「一大秘法」は存在していなかったということの傍証なのです。


(7)歴史上初めて板本尊の記録が残るのは、大聖人滅後約280年も経った1561年の保田妙本寺日我の文書(是7)

 すでに指摘したとおり、大聖人の出世の本懐とされた戒壇の大御本尊の存在は、日興上人が身延から富士に移られた際の宝物の中にも、その後の日興上人御在世中の文献にも何一つその記録は残っていません。
 板本尊という教義上特別に重要なはずの存在が、歴史上最初の記録として文献に現れるのは、大石寺派ではなく、4世日道と決別した日郷が開いた寺である千葉県の保田妙本寺出身の、日我という学僧が書き残した「観心本尊抄抜書」なのです。

「書写の本尊に現文あり、造立の仏に現証あり。久遠寺の板本尊今大石寺に在り大聖御存日の時の造立なり、池上の削りかけの御影、御入滅あるべきその九十月に造らせられるなり、一体の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に立て置くべく候」(富要-171)

 しかもその時期は、大聖人滅後ほぼ280年もの時間が流れているのです。現代との時間の隔たりで言えば、江戸時代の中頃ぐらいです。
 大聖人の出世の本懐というものがもしも最初から存在していたら、300年近くも歴史の表面に記録が残らないはずがありません。大聖人滅後にそっと模刻して、しばらく保管していたのです。


(8)大石寺派の文献で最初に板本尊の記録が残るのは、1573年以降の日主の文書(是8)

 歴史上初めて板本尊に関する記載が大石寺派の文献に現れたのは、大聖人滅後300年ほども経った、1580年頃に書かれた14世日主の「日興跡條々事示書」が最初のことです。
 そして、それ以降は頻繁に記録が残されているのです。300年にわたって、その存在すら誰も記録に残さないような重大な「宗祖の出世の本懐」が存在するなどということなど考えられるでしょうか。


◎改竄がなされた「日興跡條々事」ではなく、その草本が公開された

 現存する「日興跡條々事」は明らかな改竄が見受けられますが、堀上人が富士宗学要集8巻17ページに記載しているように、
「正本案文共に総本山に現存す」
と記された「案文」が「日蓮と本尊伝承」(水声社 金原明彦)で公開されました。その内容は、
「日興カ当身弘安弐年所給大本尊」
と、日興上人に弘安2年に給わったところの大本尊、ということが記録されているのです。
 つまり、大聖人から日興上人に継承されたのは、「弘安2年の大御本尊」ではなく、大聖人から日興上人に「弘安2年に与えられた」「大本尊」ということなのである。これに該当するものとしては、例えば万年救護本尊は大聖人から日興上人に弘安2年に与えられ、その授与書きには御真筆本尊で唯一「大本尊」という表現が記されているのです。
 そのためか、次項に記載するとおり、唯授一人の血脈相承を受けた歴代の中に万年救護本尊を根本とする見解を持った法主も存在したのです。


(9)大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)

 堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、

「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是
万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」
(通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。)

と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、

「板本尊の事也、今当山に在る也」

と改竄している記録が残されているのです。
 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、

「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」
(通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。)

と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、
「宗門から学会を取ったら何も残らない」
「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」
と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。


 以上のことを総括すれば、阿部は河辺に対して「偽物である」と言ったようですが、これは間違いで、戒壇の大御本尊は事実として立派な模刻本尊なのです。ただ、弘安2年10月の建立などではなく、弘安3年5月の日禅授与本尊を模刻して、(日犬の分析が正しければ)大聖人滅後100年以上経ってから建立されたものなのです。
 あとは、日善授与本尊に模写の形跡があることを確認し、戒壇の大御本尊の炭素14(放射性同位体)を精密に分析して、科学的な証拠を確認すれば、大石寺派の宗旨は根本的に転覆し、いよいよ創価学会も天下晴れて大聖人の言葉(御書)を根本にして、第三の千年の全人類のための教義体系へと再構築をすることになるのです。

 以上の事実を知ってもなお「戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐だと信じる」と、証拠も示せずに幻想にしがみつく方は、「イワシの頭を信じているんだが何か文句あるか」と開き直る原始人と何ら変わりの無い狂信、邪教の信者と言うことが出来ます。
 大聖人が御書で示されている原理を確認してみましょう。

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

 つまり、証拠を示せない主張は邪教だと大聖人は断定されているのです。やはり大石寺派は邪教だったのです 大石寺派(すでに広宣流布からリタイアしたので最近は退席痔派とも呼びます)では、自分たちの唯一のアイデンティティとして戒壇の大御本尊を主張しますし、大聖人の御書のとおりに実践していない老衰した自己中心の脱会者が、自分は大御本尊のある方がいいから日犬は悪でも仕方ない、と半泣きで侘びていたりもします。
しかし、貫主であった日顕自身が、戒壇の大御本尊についての真実を示唆する講釈を垂れたことで、いよいよ真実の大聖人の教えが明らかにされる「時」が来たと確信しています。
戒壇の大御本尊という立派な彫刻本尊が、実は大聖人御在世の建立ではないという証拠をたくさん示して、真実の大聖人の仏法について思索する契機としてみましょう。
 なお、それぞれの主張に根拠となる画像ファイルがたくさんあるのですが、ここでは省略させていただきます。

◎日顕が河辺メモでばらした戒壇の大御本尊偽物説の間違い

宗門でも有名な河辺メモは、かつての学会と宗門との連絡会議の学会側の記録と比較するとほとんど表現が一致していること等の実績から、その正確さについては知る人ぞ知る、という記録文書です。
その河辺メモで暴露された昭和53年2月7日付けの阿部教学部長(当時)と帝国ホテルでの会話の内容は、

「S53・3・7、A面談(注:当時阿部教学部長)・帝国H
一、 戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(写真判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている。」

というものです。この河辺慈篤(故人)のメモに記載されている内容で重要な点は、
「法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」
の個所です。
 阿部の見解は、戒壇の大御本尊とは弘安3年5月9日に顕わされて日禅に授与された本尊を「籠抜き」と称する手法(御本尊に和紙を当てて、題目を書き写し、次にその和紙を木の板に当てて板に刻むという本尊の作成方法)で彫刻したもので、日時師か日有師の頃の筆だというものです。
 最も確実な確認の方法は、毎年の虫払い法要の際に公開される日禅授与本尊について、実際にどのように籠抜きをした形跡が残っているかを確認すれば良いのでしょうが、宗旨が根本からひっくり返るので、絶対に宗門はそれを認めるはずはないし、聞いても頭から無視し否定するしか道がない。邪宗門の言い訳文書を見ると、

「日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆本尊について(むろん日禅授与本尊も同様)写真撮影や鑑定調査を許していない。」

と、とにかく頭から否定してかかるしか逃れる道が無いことを自覚しているようです。
 しかし、情報化社会の中で、すでに多様な情報が共有されているのですから、阿部の主張を基礎に、そうした公開された情報を参考にして、一つずつ事実確認をすることで、戒壇の大御本尊の真実に迫ることとしましょう。また、邪宗門に対しては、

① 日禅授与本尊に籠抜きをした形跡が残っているかを確認せよ
② 戒壇の大御本尊をわずか数mg削って、AMS法で炭素14を分析せよ

 それによって事実を示せないならば、以下の根拠に基づき、戒壇の大御本尊とは大聖人滅後に日禅授与本尊を模刻したものだと断定するぞ!と責め続けましょう!
 学会総体としても、現時点では従来の宗旨を否定していないようですが、それは大聖人の言葉である

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

に基づいているからで、上記①、②によって完璧に証拠を確認出来たら、いよいよ教義体系を根本から正すことになるのでしょう。


◎戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々

(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い(是1)

 堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の退席寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げかけておられるのです。

「御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」
「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」
「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」
「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」

等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念(日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持していたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。
 要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、というのが堀上人の結論なのです。


(2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しか記載されていない(是2)

 大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、(1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入りの連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、
「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、

「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213)

と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。
 この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、

「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」

と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で板本尊は存在しなかったという証拠の一つです。


(3)戒壇の大御本尊の主題と日禅授与本尊の主題は極めて高い一致(是3)

 大聖人の御真筆本尊は、約140体が現存しており、いくつかを除いて立正安国会がそれらを「御本尊集」として公開しています。これらの御本尊の主題(題目)はデータベースになり、最新のコンピュータ・マッチングという手法でその類似性を確認することが可能です。
 また、戒壇の大御本尊については今まで写真が公開されていたのは熊田葦城著「日蓮聖人」という文献のみで、非常に不鮮明なものであったため、写真鑑定が出来るような状況ではありませんでした。しかし、邪宗門が奉安堂と称する安普請の建屋に御本尊を移転した際に、ある法華講がごく近接した間近な距離で撮影したようで、静岡在住の金原氏が入手したその写真と、日禅授与本尊の写真とをデータとしてパソコンに取り込み、比較をしたのです。
 その結果は驚くべきもので、他の約140体も含めて、御本尊の主題のサイズと形状(とくにヒゲと呼ばれる文字の撥ね方)は、それぞれが大きく異なっているため、当然のことですが一致するようなものは存在しません。
 ところが、日禅授与本尊と戒壇の大御本尊のみについては、御本尊全体のサイズは全く異なるにも拘わらず、題目のサイズと形状の一致度が極めて高いことが判明したのです。この事実は、阿部が主張した「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、(中略)日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」との見解を見事に確認し、証明するものです。
 阿部の息子のシンショウなどは、「そんな昔に、題目を一定の比率で拡大する技術など無かった」と間の抜けた反論をしようとしていたのですが、拡大などではなく、全く同じサイズの主題なのです。そのことを指摘されると、「私は教学は苦手で」「私の信仰だ」と、教学が無いのでシンショウは、大御本尊のことを「鰯の頭」と同じレベルで信じ込んでいることを自ら暴露したのです。お粗末な邪宗門です。


(4)戒壇の大御本尊の座配と日禅授与本尊の座配は完全に一致(是4)

 大聖人の御本尊を比較すれば、十界の座配はほとんどが異なっています。
 例えば、初期の10体ほどの真筆御本尊には、釈迦・多宝の二仏しか書かれておらず、全部が仏界のみです。
 この事実ひとつを見ても、邪宗門が学会の日寛上人の形木本尊を誹謗するに際し、最初の頃には「十界が全部書かれていないからニセ本尊だ」などと真っ赤なウソをついたのが、明らかです。彼らは単に「学会員の信心を破壊するためにならばどんなウソでもついてやる」という天魔の立場であることが理解できます。学会員から破折され、赤恥を晒してすぐに引っ込めたようですが。
 戒壇の大御本尊と日禅授与本尊の座配を比較すると、阿部が指摘したとおり日禅授与本尊を模写したのであれば当然のことですが、十界のすべての表現と共に「仏滅度後二千二百二十余年」までが全く同じ内容なのです。
 そして、「腰書き」と称する御本尊の下部に書き加えられたと考えられる部分に「弘安二年十月十二日」が存在するのです。
 これは、完全な模刻本尊だということです。戒壇の大御本尊とは、日禅授与本尊を大聖人の滅後に模刻したものだという見事な証拠です。


(5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
 これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者の書き方です。
130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は非常に明確な変遷があります。

① 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」
② 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」
③ 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」

 戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。
 そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊には記載されているのです。
 ここでもまた日顕が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。


(6)日興上人が書写された多数の御本尊は日禅授与本尊以外の御本尊を書写している(是6)

 歴代法主は常住本尊を書写するに際して「書写之」と書きますが、この「之」とは「戒壇の大御本尊」という主張が、以前は退席寺派ではまことしやかに流されていました。
 しかし、日興上人が「書写之」として書き残されたたくさんの御本尊の中に、この戒壇の大御本尊と同じ座配のものがどれほどあるかをいくつも調べてみましたが、少なくとも私が調べた範囲では見当たらないのです。数百もの日興上人の真筆御本尊の中には、日禅授与本尊を書写したものは存在するのかもしれませんが、大聖人の御本尊の重要性を熟知し、五老僧の本尊不敬を厳しく批判されておられた厳格な日興上人が、もしも血脈相伝の根本中の根本と称する「一大秘法」の戒壇の大御本尊という教義の根本が現実に存在したのであれば、それを無視して、他の大聖人の御本尊を書写するとはどういうことでしょうか?
 要するにこのことも、日興上人の御存命の頃には、そのような戒壇の大御本尊と称する「一大秘法」は存在していなかったということの傍証なのです。


(7)歴史上初めて板本尊の記録が残るのは、大聖人滅後約280年も経った1561年の保田妙本寺日我の文書(是7)

 すでに指摘したとおり、大聖人の出世の本懐とされた戒壇の大御本尊の存在は、日興上人が身延から富士に移られた際の宝物の中にも、その後の日興上人御在世中の文献にも何一つその記録は残っていません。
 板本尊という教義上特別に重要なはずの存在が、歴史上最初の記録として文献に現れるのは、大石寺派ではなく、4世日道と決別した日郷が開いた寺である千葉県の保田妙本寺出身の、日我という学僧が書き残した「観心本尊抄抜書」なのです。

「書写の本尊に現文あり、造立の仏に現証あり。久遠寺の板本尊今大石寺に在り大聖御存日の時の造立なり、池上の削りかけの御影、御入滅あるべきその九十月に造らせられるなり、一体の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に立て置くべく候」(富要-171)

 しかもその時期は、大聖人滅後ほぼ280年もの時間が流れているのです。現代との時間の隔たりで言えば、江戸時代の中頃ぐらいです。
 大聖人の出世の本懐というものがもしも最初から存在していたら、300年近くも歴史の表面に記録が残らないはずがありません。大聖人滅後にそっと模刻して、しばらく保管していたのです。


(8)大石寺派の文献で最初に板本尊の記録が残るのは、1573年以降の日主の文書(是8)

 歴史上初めて板本尊に関する記載が大石寺派の文献に現れたのは、大聖人滅後300年ほども経った、1580年頃に書かれた14世日主の「日興跡條々事示書」が最初のことです。
 そして、それ以降は頻繁に記録が残されているのです。300年にわたって、その存在すら誰も記録に残さないような重大な「宗祖の出世の本懐」が存在するなどということなど考えられるでしょうか。


◎改竄がなされた「日興跡條々事」ではなく、その草本が公開された

 現存する「日興跡條々事」は明らかな改竄が見受けられますが、堀上人が富士宗学要集8巻17ページに記載しているように、
「正本案文共に総本山に現存す」
と記された「案文」が「日蓮と本尊伝承」(水声社 金原明彦)で公開されました。その内容は、
「日興カ当身弘安弐年所給大本尊」
と、日興上人に弘安2年に給わったところの大本尊、ということが記録されているのです。
 つまり、大聖人から日興上人に継承されたのは、「弘安2年の大御本尊」ではなく、大聖人から日興上人に「弘安2年に与えられた」「大本尊」ということなのである。これに該当するものとしては、例えば万年救護本尊は大聖人から日興上人に弘安2年に与えられ、その授与書きには御真筆本尊で唯一「大本尊」という表現が記されているのです。
 そのためか、次項に記載するとおり、唯授一人の血脈相承を受けた歴代の中に万年救護本尊を根本とする見解を持った法主も存在したのです。


(9)大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)

 堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、

「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是
万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」
(通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。)

と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、

「板本尊の事也、今当山に在る也」

と改竄している記録が残されているのです。
 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、

「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」
(通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。)

と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、
「宗門から学会を取ったら何も残らない」
「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」
と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。


 以上のことを総括すれば、阿部は河辺に対して「偽物である」と言ったようですが、これは間違いで、戒壇の大御本尊は事実として立派な模刻本尊なのです。ただ、弘安2年10月の建立などではなく、弘安3年5月の日禅授与本尊を模刻して、(日犬の分析が正しければ)大聖人滅後100年以上経ってから建立されたものなのです。
 あとは、日善授与本尊に模写の形跡があることを確認し、戒壇の大御本尊の炭素14(放射性同位体)を精密に分析して、科学的な証拠を確認すれば、大石寺派の宗旨は根本的に転覆し、いよいよ創価学会も天下晴れて大聖人の言葉(御書)を根本にして、第三の千年の全人類のための教義体系へと再構築をすることになるのです。

 以上の事実を知ってもなお「戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐だと信じる」と、証拠も示せずに幻想にしがみつく方は、「イワシの頭を信じているんだが何か文句あるか」と開き直る原始人と何ら変わりの無い狂信、邪教の信者と言うことが出来ます。
 大聖人が御書で示されている原理を確認してみましょう。

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

 つまり、証拠を示せない主張は邪教だと大聖人は断定されているのです。やはり大石寺派は邪教だったのです

 

鏡に映るのは歪んだ信心

 投稿者:正宗批判を破す  投稿日:2017年 9月 1日(金)11時12分49秒
返信・引用
   仏壇屋が鏡を販売!?

 爽快な勤行・唱題スタイルと快適な空間を提案する洋間で椅子に座って快適
に勤行・唱題!

 洋間のインテリアコーディネートために創られた壁掛けミラー型の仏壇です。
だから…家族全員が集まるダイ二ングやリビングが素敵な誓願の空間になるの
です。

 豊富なバリエーション、洋間から和室まで幅広く対応できるように、空間に
自然に溶け込む多彩なデザインのフレームを取り揃えました(創価学会員専用
仏壇店HPより)。

 さて、これが何の商品の宣伝文句かお判りだろうか。二〇一五年に発売され
た薄型壁掛けミラー仏壇・鏡壇ミラリエなる"仏壇"なのだというのだから驚き
だ。

 隠れ創価学会員このミラー仏壇なるものは、外見はインテリアのような装飾
フレーム付きの壁掛けの鏡で、そこにはお供物などを載せる壇もなければ、厨
子や扉もない。

 ただ単なる額縁の鏡なのだ。この装飾フレーム部分には多少の厚さがあり、
その内部に『二セ本尊』がセッティングできる。

 また、鏡部分はマジックミラーになっていて、スイッチを入れると内部に取
り付けられているLEDライトが点いてミラーが透過し、内部にある『二セ本尊』
が拝めるという仕様になっている。

 デザインも部屋の雰囲気に合わせて十種類以上、サイズも『二セ本尊』の大
きさに応じてS・M・Lの三種類が用意されていて、何とも豊富な取り揃えだ。

また、あるテレビ番組でも取り上げられ、住宅環境の洋風化によって従来の
仏壇だと浮いてしまうから、インテリアの中で仏壇の機能を付けてしまおうと
いう発想で開発されたと紹介されていた。

 なるほど、確かに仏壇に明確な定義は存在しない。だからといって仏壇を何
かの"ついで"のような、おまけ機能的な扱いをするのは如何なものか。

 販売者のHPを見ても、お樒・線香・お灯明の三具足・五具足で荘厳されてい
る写真はわずかで、そのほとんどは、花瓶に色花、写真スタンドや卓上のイン
テリアライトなどに取って代わっている。

 まさかそこに本尊が安置されているとは……。本当のところ、椅子に座って
快適に勤行・唱題したいというのは建前で、本音は創価学会の信心をしている
ことを隠したいのではないか。

 しからば創価学会の信心とは他人に知られると侮蔑されるようなものなのか。

 これではまるで、隠れキリシタンならぬ、隠れ創価学会員ではないか。

 信心の歪み御本尊は家の中で一番よい部屋を仏間とし、仏壇は毎日掃除して
清浄に保ち、お樒は常に生き生きしたものを供え、御本尊を生身の日蓮大聖人
と拝してお給仕することが重要だ。

 客人に「なぜ仏壇に色花がないのか」と問われたら、それを好機ととらえ即
座に折伏しなさい、とは多くの学会員が受けてきた指導だ。

 近年、創価学会では御本尊へのお給仕や化儀、折伏の在り方など、信心修行
において基本的な形式の多くを安易な形へと改変してきた。

 例えば、樒の造花を許したり、謗法払いの不要、折伏から仏法対話への軟化
などである。そして、その最たるものは五座三座の勤行を方便品と寿量品自我
偈を一回読むだけの一座としたことだ。

 かつて池田大作は、「この『御本尊』は、自身の『信心』のなかにこそある
と大聖人は仰せです。妙法の当体である自分自身、人間自身が大事なのです」
(聖教新聞平成四年七月五日付)と言い放った。

 そして「人間主義」などという自分本位の信心を提唱したのだ。これが現在
の学会における信心の原点となっている。

 信仰の基本を蔑ろにする自分本位の信心この信心の歪みが、信心修行の乱れ
として現われてきているのである。

 そしてこれは、御本尊と大聖人が一体であることを確信できない証左でもあ
るのだ。

 これはまさに『二セ本尊』を拝む現罰である。

 「源濁れば流れ清からず」(御書九一三頁)『二セ本尊』・人間主義の信仰を
捨てさせ、正信に導くことが我らの責務だ。


 

大石寺総代は僧俗共に謗法塗れ

 投稿者:育成  投稿日:2017年 8月18日(金)09時47分4秒
返信・引用
  信徒は神社参拝、坊主は道祖神の厄払い
総代の井出が三宮神社の祭礼に参列

日蓮正宗の総本山大石寺の総代・井出光彦が十三日、富士宮市内の三宮神社
の祭礼に参加した。三宮神社の祭礼は午前九時半ころから始まり、井出は社(
やしろ)に向かって拝礼していた。

井出が三宮神社に参拝したのは今回だけではない。創価新報(八月十六日付)に
は一昨年の八月にも同神社の神の聖域を示す「紙垂」で囲まれた社の前で合掌
・礼拝していた写真が掲載されており、例年のように参列しているのである。

この井出は、去る七月に大石寺の総代に再任されたばかり(下の辞令を参照)。

以前、井出は曽我神社の総代も兼務していた。そして大石寺の二大法要など
の際、ニセ法主の日如を先導して大石寺の境内を練り歩き、日如は謗法の総代
の後に続いて歩いていたのである。

本紙前号で大石寺近郊の日蓮正宗の某寺のY副講頭が富士宮の上野地域を探
索する講座〔東西南北・歩こう上野〕という企画で五月二十七日に双体道祖神、
精進川浅間神社、馬頭観音の像の石造物や神社などを巡る案内役を務め、石造
物や神社の由来などを説明していたことを紹介した。

更に、本紙第一五八二号では、富士地方部長の清功が六月、富士宮市・西山
本門寺の境内にある織田信長の首塚で行われた「信長公供養祭」に参列し、西
山本門寺・大詮坊の本間裕史住職をはじめ浄円坊、妙円坊の僧侶達が経を上げ
ていた時、清功も同座し焼香したことも伝えた。

実は、この清功は浅間神社の神事に参列する常連だ。平成二十五年八月、小
川只道(理境坊)が清功に向かって「地方部長の立場にありながら神社の行事
に参加するとは何事か! 皆さんの前で謝りなさい」と叱り付けたことがある。

だが、小川には法華講員に謗法行為を叱責する資格はない。平成三年六月十
六日、関西医師会の有志が大石寺を訪れた際、正本堂や大客殿を案内した小川
は観光案内の代価として金員を貰った。

また、同年八月四日、大石寺近くの熊久保地区で道端の道祖神に向かって「
厄払い」と称して読経・唱題して〝謗法の人達〟から供養を受け取っていた。

これだけではない。同六年十一月五日、身延派の布教師会一行が大石寺を訪
問した際、大石寺側が丁重に迎えた様子が身延派の「布教師會報」 第二十号
に「日蓮正宗総本山・大石寺研修参拝記」として掲載された。

「参拝記」の公表により、身延僧八人の見学は「大石寺内事部の理事からの応
諾の電話を頂戴」して実現したとか、後日、案内役の大石寺僧から丁重な礼状
が送られてきた等々、裏の事情が明るみになった。

この「大石寺内事部の理事」とは小川のことで「(身延の)皆様の暖かなお
心に触れ(略)暖かな気持ちで御案内申し上げることができましたことを感謝
しております」と礼状を送った。

この小川只道も大石寺の総代で、大石寺総代は坊主も信徒も謗法に塗れてい
る。
 

法華講幹部が神社・道祖神を案内

 投稿者:育成  投稿日:2017年 8月17日(木)09時28分35秒
返信・引用
  日如の「日蓮正宗は謗法厳誡」は真っ赤な嘘
富士学林の小僧が今年も邪宗寺を巡拝

日蓮正宗法華講の幹部が富士宮市内の神社や道祖神などを案内して回ったこ
とが物議を醸(かも)している。

これは富士宮の上野地域を探索する講座〔東西南北・歩こう上野〕という企
画で五月二十七日に「双体道祖神」「精進川浅間神社」「川掛の山の神」「馬
頭観音」の像の石造物や神社などを巡り(下の写真参照)、その案内役が大石寺
近郊の日蓮正宗の某寺のY副講頭だったのだ。

案内役のY副講頭は講座の受講者達に石造物や神社の由来などについて真剣
に説明していた。

まず、双体道祖神は天明元年(一七八一年)に造立され、災いを防ぐ神とし
て、集落の入口に置かれた。

また、精進川浅間神社前には「熊野大神宮」「浅間大神宮」「八幡大神宮」
の幟が立てられ、かつて村内にあった神社がここに合祀されたものという。

川掛(かわがけ)の山の神は石祠(石で作られた祠)が並んでいる。神や仏を
祀る石祠は江戸時代に盛んに作られたようで、ここには「山の神」「稲荷」な
どが祀られているとのことだ。

日如は教徳寺の移転法要の際、謗法厳誡に触れて「昔から日蓮正宗では神社
仏閣の前で草鞋(わらじ)の鼻緒が切れても、そこで結んではいけない、と言わ
れた。それは紐を結ぶ時に頭を下げてしまうからです」等と自慢していたが、
法華講幹部が神社や石造物を案内し、説明して回るのは謗法ではないのか?

法華講員の間でも「神社を案内して回るのは、やはり謗法だ」との声が多い。

また、富士学林の小僧達の謗法寺への巡拝は恒例行事になっている。

今年も六月二十日.富士学林大学科一年生の二十三人が参加して日蓮大聖人
に有縁の地である千葉県安房方面への日帰り旅行を実施した。

一行は、まず、東京都大田区の池上本門寺を参拝。その後、千葉県の誕生寺
の祖師堂、本堂、宝塔を訪れ、続いて清澄寺から鏡忍寺を順次、巡拝していた。

また、既に本紙第一五八二号で紹介した通り、富士地方部長の清功が六月、
富士宮市・西山本門寺の境内にある織田信長の首塚で行われた「信長公供養祭」
に参列。西山本門寺・大詮坊の本間裕史住職をはじめ浄円坊、妙円坊の僧侶達が
経を上げ、清功も同座し焼香もした。日如の言う謗法厳誡は真っ赤なウソである。



 

宗務広報 No.1294

 投稿者:正宗批判を破す  投稿日:2017年 8月 6日(日)14時45分47秒
返信・引用
   覚命寺(北九州市小倉北区)、宗門へ返還

 本日、これまで正信会問題によって、昭和57年から不法占拠されていた本地山覚命寺が、35年ぶりに宗門へ返還されました。

 これは、同寺元住職であった秋田舟済が本年5月17日に死去したことによるもので、これを機に宗門へ返還されたものであります。

 なお、同寺は、今後、常照寺・上田道一師が兼務住職として職務を執行し、占有管理してまいります。
                                                                        以上

 

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